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今朝もあざやかな夢を見ました。
大型の軍用機が頭上を低く飛んでゆき、機体後部が浮力を失って沈み込み、左後部から住宅地に墜落。直前にドローンが飛び出しました。
飛行機が墜ちる夢は何度も見ています。
今年は「変化の年」ですから、用心しましょう。
「生きている死者からの手紙」(1914年の出版、ノンフィクション、著作権フリー)
エルザ・バーカーによる記録
金澤竹哲・訳
手紙16 見てはいけない(前半)
死を前にした人に伝えたいことがある。死と呼ばれる変化を経た後は、自分の体のことはできるだけ早く忘れて欲しいのだ。
ああ、私たちがかつては自分だと信じていた「あれ」(訳者注、死体)を地上に戻って見たがる好奇心とは! 我々は、ときにその思いに襲われ、自分の意志に反して、「あれ」に引き寄せられてゆく。ある者にとっては病的な強迫観念となり、多くの者にとっても、かつては頼りにしていた骨と肉の断片に過ぎぬ「あれ」から解放されることはないのだ。
彼らに、「あれ」のことは全部忘れて、その思いを捨て去り、自由になってこちらの世界に来なさいと言いなさい。過去を省みるのは時には良いが、このような過去の遺物は別物だ。
棺のなかを覗くのはたやすい、いま私たちがまとっている体は闇のなかでは光なのだから、粗い素材を通過してしまう。私も数回、「あれ」を訪ねたが、もう戻らないと決心した。それでも、「あれ」がどうなっているか知りたいという強い執着が再びよみがえるかもしれない。
私は驚かせたくないし、痛みを与えたくもない――ただ警鐘を鳴らしたいだけだ。墓のなかで出会う光景は痛ましい。そのためだと思うのだ、ここに来たばかりの魂たちの多くが憂鬱そうにしているのは。彼らは訪ねてはいけない場所へと何度も何度も戻ってゆく。
君が知る通り、ここでは私たちがある場所を強く思うと、そこにいるのだ。私たちの体はとても軽くて、何の努力もなしで考えた通りに動いてしまう。彼らにそうしないように言いなさい。
ある日、並木道を歩いていた時に――ここには木々がある――すその長い黒服を着た背の高い女に会った。彼女は泣いていた――ここには涙もある。なぜ泣いているのですかと聞くと、言いようのない悲しみを目に浮かべ、私を振り向いて言った。
「わたし、『あれ』のところへ行ってみたのです」と彼女。
私の心は傷んだ、彼女がどう感じたか知っていたからだ。最初の訪問のショックは何度も繰り返される、私たちが自分自身のものと考えたいと願う「あれ」がどんどん変化してゆくからだ。
並木道を歩きながら泣いていた背の高い黒服の女のことはよく思い出す。人を「あれ」に引き寄せるものは好奇心であり、磁石のような力だ。だがそれは何の益もない。忘れてしまうほうがいい。
私は時に、純粋に科学的関心から、ライオネル少年に自分の体のところへ戻ったかどうか聞きたくなる。だが、彼にその考えを吹き込むことを恐れて聞いていない。彼は飽くことのない好奇心を持っている。子供の頃にこちらに来た者は、私たちのような病的な本能を持たないのだろう。
人生で、私たち自身だとみなしている形が、私たちの真の不滅の自己ではないと覚えていることができれば、肉体に必要なケアはするものの、過大なほど大切だとは思わないだろう。
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