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「生きている死者からの手紙」序文

 投稿者:世話人の竹哲です  投稿日:2018年12月28日(金)07時05分21秒
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   わたしも70歳が近づいてきました。

「死んだらどうなるのか?」
 もちろん、霊界へゆきます。
「では、霊界はどんなところ?」

 誰しも思うことでしょう。

 この人生の難問に、明快に答えた人がいます。

 ハッチ判事です。

 著名なアメリカ人判事は、信仰のあった小説家・詩人であり、かつ霊媒体質であったエルザさんに、霊界に行った直後から、コンタクトをとり始めました。

 ですから、この本は、霊界へ行ったばかりの人が、その個性はまったく同じまま、霊界とはどんな場所なのか、直接、自分の手で伝えてきたノンフィクションなのです。

 この知識は、高齢者が知るべき、いちばん大事なものです。

 宗教を信じても、宗教に頼っても、天国へは行けません。

 そもそも、天国はあるのでしょうか?

 答えは、ハッチ判事の目撃談のなかにあります。

 真実を学び、広めたいですね。

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「生きている死者からの手紙」(1914年の出版、ノンフィクション、著作権フリー)
        エルザ・バーカーによる記録
        金澤竹哲・訳

序文

 パリに滞在していた昨年のある日、私は鉛筆をとって何かを書きたいという強い衝動にかられたが、何を書きたいのかまったく分からなかった。その衝動に身をまかせると、私の手は何者かにつかまれたごとく、人間についての卓越したメッセージを綴り、「X」と署名したのだ。
 メッセージの意図は明らかだったが、署名が私を混乱させた。
 翌日、友人にこの文章を見せ、「X」氏が誰だと思うかと聞いてみた。
「なぜなの」と彼女は言った。「これは私たちがいつも――さんと呼んでいる人じゃなくて?」
 私は知らなかった。
 現在、――さんはパリから6000マイルも離れた場所で、当然、生きているはずだった。だが、翌日か翌々日にアメリカから手紙が届き、――さんが、私がパリで「X」と署名された自動書記のメッセージを受け取る2、3日前にアメリカ合衆国の西部で亡くなったと伝えた。
 私の知る限りでは、私が彼の死を知ったヨーロッパの最初の人間であり、私はただちに友人に電話をかけて「Xさん」の死を伝えた。彼女は驚いたそぶりを見せず、私が「X」氏の手紙を見せた数日前にそう感じていたが、その時は口にしなかったと言った。
 当然ながら、私はこの異常な出来事に感銘を受けた。
「Xさん」はスピリチュアリスト(心霊家)ではなかった。私も同様で、以前もスピリチュアリストではなかったし、覚えている限りでは、死者と思われる実体が私の手を通して自動書記をしたのは他に2例あっただけだった。その時、私は霊媒と一緒だった。しかしメッセージは短いもので、私自身は現象を気に留めなかった。
 子供の頃、数回、他の人と一緒にウィジャ盤の上に手を置いたことがあり、ありふれたあれやこれやのメッセージをもらったことがあった。「Xさん」からの最初の手紙を受け取る数か月前、一度だけ、アマチュア霊媒と一緒にウィジャ盤に手を置いたことがあったが、亡くなった友人からと思える予言が綴られ、翌年、私のマンションで火事が起きたので、文字通り立証された。しかし火事は私の責任ではなく、また私自身の住まいで起きたのではなかった。
 随分前には、友人たちに説得されてプロが主宰する降霊会へ出かけ、いわゆる物質化現象を目撃した。一人の時には2、3度、霊を見たことがあり、どんな仮説を立てても、死者の霊だとしか考えられなかった。
 だが、この世とあの世の間のコミュニケーションというテーマについて、私はまったく無関心だった。スピリチュアリズム(心霊主義)には寒気を覚え、このテーマについての基本的な著作すら読んだことはない。
 にもかかわらず、私は何年もの間、毎日のように「予知夢」を見続けていて、そのなかには驚くべき予言もあった。そしてそれらの夢の解釈は、後に「Xさん」から与えられた解釈が正しいのだろう。
 アメリカから――さんの死を知らせる手紙を受け取った夜、私は「X」氏が誰なのかを教えてくれた友人と一緒だったが、彼女は、もしも彼ができるのなら、再び書かせる気はないかと聞いた。
 私は同意したが、それは、自分が関心を持っているというよりも、友人を喜ばせたいと思ったからだ。すると、「私はここにいる、間違いない」で始まるメッセージが私の手を通して届いた。それは突然途切れたり、センテンスの途中で休止し、大文字があったりして、ひどく読みにくい手紙だったが、最初の時と同様、きわめて自動的に綴られた。その力は強くて、翌日には私の右手と腕が利かなくなるほどだった。
「X」と署名された数通の手紙は数週間のうちに自動的に書き上げられた。だが、私は夢中になるどころか、このような形の創作に気が進まなくなったのだが、友人との議論のなかで、もし「X」氏が本当にこの世とコミュニケーションしたいのなら、彼を手助けするのは名誉なことだと納得した。
「X」氏は世間一般の人ではなかった。彼は著名な弁護士であり、年はほぼ70歳で、心底から哲学を愛し、数冊の本を著し、その純粋な理想や情熱は彼の知己であるすべての人にインスピレーションを与えた。彼の家は私の家からは遙かに遠く、彼に会う機会はごく稀でしかなかった。私の記憶している限りでは、私たちは死後の意識について語り合ったことはなかった。
 自動書記への強い偏見を乗り越えてゆくにつれて、「X」氏が語るあの世の生活について興味を覚えるようになった。このテーマについて書かれたものは読まなかったし、ベストセラーになった「ジュリアからの手紙」すら読んでいないので、私に先入観はなかった。
 メッセージは次々と届いた。しばらく経つと、手と腕の不自由さを感じなくなり、非常に判別しやすいとは言えないものの、文章からも、不規則さが消えていった。
 ある時は、手紙は私の友人がいるときに書かれたが、その後は、私がいつもひとりのときに「X」氏が来るようになった。私はパリとロンドンの間を行き来していたので、手紙はこのふたつの都市で書かれた。時には週に数回の訪問があり、時には一か月も彼を感じないこともあった。私のほうから彼を呼び出すことはなく、訪問以外の時に彼のことを考えることもなかった。大半の時間、私のペンと思考は他の事柄で埋められていた。
 たった一度だけ、自動書記が始まる前に、手紙の内容がいくぶんか分かったことがあった。ある夜、鉛筆を持つと「Xさん」が何を書こうとしているか分かったのだ。だがこの出来事は覚えているのだが、どの手紙がそれだったか忘れてしまった。
 手紙を書いている間、私はたいてい半覚醒状態で、後でメッセージを読み返すまでは、ぼんやりとした内容しかわからなかった。2、3の例では、無意識に近い状態で鉛筆をとり、何を書いているのか分からなかったが、これはしょっちゅう起きたわけではない。
 この手紙が、私の序文付きで出版されるべきだと最初に言われた時は気乗りがしなかった。数冊の本の著者であり、多少なりとも知られていたので、文学的評判に少しは誇りを持っていたからだ。私は変人、「気違い」だと見られたくなかった。だが、私は前書きを書くことに同意し、手紙は私の目の前で自動書記で書かれたこと、それは完璧な事実ではないけれども、真実であると説明した。私の友人は満足したが、時が経つにつれて、私が不満を覚えるようになった。そういう説明は誠実ではなかった。
 私は自分自身に問いかけてみた。もしも私が、手紙を個人的な序文なしに出版するのなら、フィクションか想像の産物と見なされるだろう、そして手紙に込められた素晴らしいメッセージは力を失い、読者に死後の生を信じさせることはできないと思った。またもしも、序文で、手紙は私の目の前で自動書記と思われる形で書かれたと説明すれば、当然のことながら誰の手で書かれたのかという疑問が生じ、私は言い逃れを考えなければなくなる。だが、もしも正直に、手紙は私自身の手で書かれたと認め、事実を正確に述べれば、たったふたつの仮説しか残らない。ひとつは、手紙は肉体を離れた実体からの真実のコミュニケーションだというものであり、もうひとつは、私自身の潜在意識の労作だということ。後者の仮説は、友人が死んだことを知る前に届いた、「X」と署名された最初の手紙を説明することにはならない。なぜなら人々の潜在意識下の心はすべてを知っていると推察しなければならないからだ。その場合、なぜ私の潜在意識下の心が、私自身やほかの人の客観的な心を無視して、長くて苦労の多い偽りを自分自身に課したというのだろうか?
 誰かが、手の込んだ詐欺を働き、かくも重大な問題を弄んだと私を非難することは、当時もいまもなされそうにない。私の想像力は、このような方法以外に、詩や小説といった正当な表現手段を持っていたからだ。
 この疑問が片付いた時には、手紙の3分の2を書き終えており、もしも出版するなら、手紙を受け取った正確な状況を述べた正直な序文を付ける決心をしていた。
 実際の執筆には11か月以上かかった。すると、編集をどうするかという問題が出てきた。何を削除すべきか? 何を含めるべきか? 私は、「X」氏、私、彼の友人たちの個人的な事情への言及を除くすべてを残すことにした。私が付け加えたことは何もない。たまに「X」氏の書き方は粗雑だったので、私はセンテンスを直し、反復を削ったが、編集者としての私が通常の原稿を渡されて校正する時に行うよりは遥かに原文に忠実であろうと心がけた。
「X」氏は、時には非常にくだけた調子で、時には法律用語やアメリカのスラングを使った。彼は親友同士の手紙のように、しばしばひとつのテーマから別なテーマへと飛び、何のことわりもなくまた元のテーマへ戻るのだった。
 彼は死後の生についていくつかの意見を述べているが、それらは私がいつも抱いていた意見とは正反対のものだった。これらの意見は、そのまま残された。そうした彼の哲学的陳述は私がはじめて触れるものだった。時には、私がその深遠さに気づくのが数か月後ということもあった。
 私は手紙を公表したことを後悔しない。手紙は多分、興味深いドキュメントであり、情報ソースが誰であろうとも、それを世に発表することへの恐れは、私が「X」氏に手をかした時に感じた恐れには到底及ばない。
 もしも誰かが、私自身、手紙は見えない世界からの真実のものと思うかと聞くのなら、私はそう思うと答えたい。私が知るはずのない個人的で、かつ注意深く触れられた部分や言及については、真実であると分かっている。心理学者たちの好きなテレパシーの可能性は残っている。しかし、もし手紙が私にテレパシーで届けられたのなら、誰がそうしたというのだろう? 多くの手紙を書いているときに一緒にいた私の友人ではない。なぜなら手紙の内容が私同様、彼女にとっても驚きだったからだ。
 しかしながら、この本が科学的だと言うつもりはない。科学は実験と証明を求めるからだ。彼が死んだことを知らず、ま「X」氏が誰かも知らなかった状態の時に「X」氏と署名された最初の手紙を除けば、この本は、心理学者の言う「実験と再現という条件」を満たしてない。肉体の死の後に魂が存続するという証拠になるかと言うと、それは読者個人の性格や体験、そして内容が真実であるかについての内なる確信によって、受け入れられたり、拒否されたりするだろう。
「X」氏がいなくなれば、あるいは宇宙の見えない世界の誰かで、彼同様に信頼できる実体がいなければ、私がこの種の記録を書くことはもうないだろう。無分別な霊媒という存在について、私はまだ強くぬぐいがたい偏見を持っており、妄想と欺瞞という危険がともなうことを理解している。しかし「X」氏とパリの友人への信頼がなければこの本は生まれなかった。また、見えない世界の著者や目に見える霊媒、どちらについても疑いを持てば両者ともに機能を麻痺させることになり、この手紙は生まれなかった。
 手紙が私個人に及ぼした影響とは、私がこれまで抱いていた死への恐れを完全に払拭してくれたことであり、また不死の信念を強めてくれ、死後の世界が太陽のもとのこの世界同様に現実的で活気に満ちたものと信じさせてくれたことだった。もし手紙が、私にしてくれたように、ほかの人にも高揚した不死の感覚を感じさせるのなら、私は苦労が報われたと感じるだろう。
 なぜこんな本を出したのかと私を責める人には、私は常に世の中に最善のものを提供しようと努力してきたし、手紙は私の最良の作品のひとつだと伝えたい。

 
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