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「生きている死者からの手紙 19」(1914年の出版、ノンフィクション)
エルザ・バーカーによる記録
金澤竹哲・訳
第13の手紙 実在する形、しない形
はじめてここに来た時は、見ることに夢中で、見る方法については疑問を抱かなかった。しかし最近――最後の1、2通の手紙を書いてからだが――表面的には同じ物質のように見える、対象物の違いに気づき始めた。例えば、地上では疑いなく存在していたもの、男たちや女たちの容姿や、他のものでもそうだが、目に見えてはっきりしているのだが、それらが思考の産物であるならば、違いが分かるようになった。
この考えは、天国を見ていた時に浮かび、パターンの世界を以前から、そして最近、なんども探検しているうちに強くなった。
そのうちに、この二種類の似て非なるものを一瞥で見分けることができるようになるだろう。例えば、人間に会った時、あるいは人間と見えるものでもよいが、この人は有名な小説、例えばユーゴーの「レ・ミゼラブル」に出てくるジャン・バルジャンですよと教えられたとする。すると、私は、この希薄な素材でできた世界で、本人そっくりの、十分な活力を持った思考の産物を信じることになる。私はまだそんな人物には出会っていない。
もちろん私が、思考が作った人間もどきのものと話さなければ、また、他者がそのような人と話すのを見るのでなければ、思考の産物が本当に存在していると言い張ることはできない。これからは、これについて実験してみたい。本物そのものに見える者に話しかけ、相手が答えることができれば、本物と考えてよい。空想の産物、あるいは思考が作り出したものなら、絵のように活き活きとしていても、魂はなく、力のまとまりもなく、自己を持ってはいない。単に絵のようなものだ。誰と出会っても、この方法で見分けるつもりだ。
もしも独特の形をした木や動物を見て、それに触れ、感じることができれば――ここでの感覚は地球同様に鋭いのだ――この世界の微細な素材のなかで、それらが存在していると納得できる。
私がここで会った人間はすべて実在している。だが、手を触れても感じることができず、私の問いにも答えられない人間を見つけることもできるだろう。そうなれば、人間同様に思考の産物の人間も、本物と思えるほどの凝縮力を持っているという私の仮説にデータが加わる。
隠れているにせよ、顕れているにせよ、実体のない霊は存在せず、霊のない実体も存在しないことは疑う余地のない事実だ。人間を描いた絵は、遠くから見れば本当の人間に見える。
熟慮された思考の産物(訳者注:人間そっくりの存在)が存在するのだろうか、意図的に作られたものが? 私はそう思う。そのような思考の産物は、存在し続けるために極度に緊張しているだろう。
私はこのテーマには満足したので、次の機会が来るまではこれくらいにしておこう。
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