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選挙の本当の争点は改憲で、緊急事態条項を入れるかどうかが中心です

 投稿者:大森  投稿日:2017年10月 8日(日)07時50分51秒
返信・引用 編集済
  今回は最近の時事問題を書きます。

今、私たちが民主主義か、独裁制を選ぶか、の分岐点にいると思うので書かずにいられません。


自民党や小池新党が口にしないが、今回の選挙の争点は憲法に決まっています。

首相は選挙前から、今後、改憲をする日程を、提案しているし、その通りすると言っていました。

だから、今回は自民党改憲草案の改憲派で話を進めるか、そうではないかを決める選挙です。

自民党改憲草案での最大の問題は緊急事態条項を入れるかどうかです。

これは自民党も公言しています。

小林節さん・樋口陽一さんの「憲法改正の真実」にも「緊急事態条項が改憲の本丸だ」とあります。

9条についてもありますが、9条はもうすでに戦争法があるのです。安保法制があるのです。

変えなくても現実的には自民党のやれるようにできます。

一方、緊急事態条項は恐ろしい、本当に恐ろしい条項です。

1 緊急事態を首相が自分で宣言できる。

2 緊急事態になれば、首相は法律と同じ政令を作れる。

3 緊急事態であれば首相は予算を決められる。

4 緊急事態には国民の人権を制限できる。

5 緊急事態であれば、選挙は行われない。

6 緊急事態は100日であるが、いくらでも延長が可能。

私は弁護士さん二人の改憲講演会を聞き、二人が口をそろえて「予算・法律を一人で動かせるなら、独裁と同じ。しかも、選挙が行われないなら、もはや民主主義ではない。いくらでも延長出来て、それが当たり前になる。いつでも、そうした独裁状態に持ち込めるなら、権力が暴走する可能性は大きい。」といった内容を話していました。

小林節さん・樋口陽一さんの「憲法改正の真実」でも「自民党が緊急事態条項の新設に躍起になっているのは『俺たちの好きにさせろ』と言っているのに等しい」
「一度手に入れた万能の権力をすぐに手放す気になるかどうか」と同様の危惧をしています。

つまり緊急事態条項は、民主主義を独裁制に変える魔法の杖なのです。

緊急事態条項が入れは日本は民主主義でなくなるのです。

あの維新の会の橋本氏も「自民党改憲草案は悪夢だ」と言ったとのこと。

立憲民主党の『枝野氏はインタビューで「『緊急事態条項』はそれこそ論外。政府が『緊急事態』と言ったら、憲法の縛りなく何でもできるようにすると」「まさにナチスがこれをやったんです」と、正確な歴史認識に基づく危機感を口にした。』
(インターネット情報)

麻生副総裁が「ナチスの手法をまねてはどうかね」と言ったのは有名な話しです。


弁護士さんは、「日本の法律で緊急事態対応の準備は十分できている。東日本震災の場合でも災害時に権力を中心に手中してはダメ、現場に分散したほうがいいと理解されている」と話しています。
北朝鮮のミサイルに迎撃もできないことは、専門家が言っています。
それを緊急事態条項を入れただだけで、迎撃できるようになるなんて、ありえません。

今回の選挙は民主主義か独裁かを選ぶ選挙だと思っています。

参考に山本太郎参議院議員・街頭記者会見10月1日の動画1:20ころからご覧ください。

https://www.youtube.com/watch?v=JDcddCA_wEc&t=4856s
 
 

旧約聖書時代のイスラエル人の罪と現代(イエス様の十字架への道補遺)

 投稿者:大森  投稿日:2017年 9月17日(日)08時11分16秒
返信・引用 編集済
  はじめに

今回はマルコ伝福音書の12章1節12節の葡萄園の農夫が所有者に対して罪を犯した個所に関連して、旧約聖書について書きます。また、その罪と現代人について考えます。

この葡萄園の労働者たちは長年にわたって所有者に罪を犯し、その使いを殺したり迫害したりしました。
労働者はイスラエル人と特にその祭司や支配階層、所有者は神、使いは預言者たちでしょう。
イエス様は、その長年の罪を糾弾し、それによってエルサレムが滅ぶことを預言します。

私は旧約聖書を引用しながら、長年、イスラエル人が犯してきた罪の一つについて考えます。



1 旧約聖書イスラエル人の児童焼殺儀式

私は、イスラエル人の罪を考えるにあたり、まず、エレミヤ書7章31章を上げます。

「またベンヒンノムの谷にあるトペテの高い所を築いて、むすこ娘を火に焼いた。わたしはそれを命じたこともなく、またそのようなことを考えることもなかった。」

関連してエゼキエル書16章20節21節。
「あなたがわたし(神)に産んだむすこ、娘たちをとって、その像に供え、彼らに食わせた。このようなあなたの姦淫は小さなことであろうか。あなたはわたしの子供を殺し、火の中を通らせて彼らにささげた。」

また関連個所では歴代志下33章6節
「彼(マナセ王)は、ベンヒンノムの谷でその子供を焼いて供え物として、占いをし、魔法を使い、まじないを行い、口寄せと、占い師を任用するなど、主の前に多くの罪を行って、その怒りを引き起こした」

(以上は口語訳です。新共同訳では歴代志この個所は「子供たちを火の中を通らせ」とあります。「火の中を通した」という表現が「焼き殺した」の婉曲表現なのか、儀式か占いの意味で火の中を通すだけで殺さなかったのかは簡単には判断できません。しかし、同じベンヒムノムの出来事なので、「火の中を通した」は焼き殺したことの婉曲表現なのではないかと私は思います。歴代志や列王記は王に関する史実を書いていて、筆者たちは、王への最低限の敬意はもっていて、おぞましい表現を王にしなかったということなのではないかと推測します。)


エレミヤ書やエゼキエル書では新共同訳でもはっきりと「火で焼いてささげた」とあります。

また列王記下21章、23章にも口語訳、新共同訳で、「子供を火で焼く」、「子供を火の中に通す」という表現があります。

「王(ヨシヤ)はまた、だれもそのむすこ娘を火に焼いてモレクにささげ物とすることのないように、ベンヒンノムの谷にあるトペテを汚した」列王記下23章10節、口語訳。
これは善なる王ヨシヤが、子供を火で焼き悪神モレクにささげる儀式を禁止した記述です。
ベンヒンノムの谷で崇拝された悪神はモレクと言ったのです。


旧約聖書時代のイスラエル人は、偶像や悪神にささげるため、子供たちを火で焼きささげていたというのです。
旧約聖書時代にイスラエル人は、たくさんの罪を犯していたと思いますが、我々現代人には衝撃的で、おぞましい罪が示されます。
神様とその使いである預言者、そしてイエス様は、「子供を焼き殺す罪を止めよ」とイスラエル指導者に訴えてきて、その意見は無視されてきたのです。
そして、これを見れば、イエス様は糾弾したイスラエル人の罪がいかに深いものであったかを感じることができます。

私はこれに関連して律法であるレビ記を思い出します。

レビ記18章21節
「あなたの子どもをモレクに捧げてはならない。」(口語訳)
「あなたの子を一人たりとも火の中を通らせてモレク神にささげ、あなたの神の名を汚してはならない」
(新共同訳)

ここで律法ははっきりと子どもを火で焼く儀式を禁止しています。



2 児童焼殺儀式と近親姦淫の罪

このレビ記18章を読むと奇妙なことに気が付きます。
それは18章が、近親姦淫を禁止した言葉に満ちているということです。
「あなたがたはだれもその肉親の者に近づいてこれを犯してはならない」レビ記18章6節から始まり、
「あなたなの母を犯してはならない」
「あなたの姉妹を犯してはならない」
「あなたの娘の娘、息子の娘を犯してはならない」
「あなたの父の姉妹を犯してはならない」など三等身までの肉親や息子の嫁、父の妻(多妻だから血はつながっていない)などの家族、肉親との性交、姦淫を禁止しています。


そして、そうした姦淫禁止の掟が続き、隣の妻との性交を禁止した文の後に、突然、「あなたの子を一人たりとも火の中を通らせてモレク神にささげ、あなたの神の名を汚してはならない」が続くのです。
なぜ、近親姦淫の禁止の中でいきなり、子どもを焼いてもモレクにささげることを禁止した掟が出てくるのでしょう。

私は、この18章を読みながら、一つの推測を立てました。
それは、実は、近親姦淫と子どもを焼くという、おぞましい二つのことは密接な関係があるのではないかということです。
近親姦淫は言うまでもなく性行為であり、その結果が妊娠に至ることは多いでしょう。
当時は避妊の技術がそれほど高くない、というより避妊の医学的技術はほとんどなかったと思われます。
避妊の技術がなく、妊娠したら、出産するしかないでしょう。
罪の証明である子どもが生まれるのです。
その子どもは、常に罪を犯した男女に、お前たちは罪を犯したとその存在で語り続けます。周囲から見ても、その子どもを見て、犯した罪を認識せざるを得ないでしょう。

そういう状況で、子どもを火で焼くと言うおぞましい罪があったのかもしれません。

また、列王記の3章を読むと、モアブ王が自分の願望のために、子どもを焼き殺す儀式をしたことが書いてあります。そうであれば、もしかしたら、自分の欲望をかなえるとい目的で、近親姦を行い、儀式で殺すために生贄の子どもを産ませたのかもしれません。

本当に気味の悪い、嫌な話です。おぞましい、穢れきった話です。

しかし、神が滅ぼせといった、カナンの人々は、そうしたおぞましい罪を平然と行っていた人々であり、だから、神は、滅ぼすのだと聖書は語ります。

「わたしはお前たちの前から追い払うもろもろの民族はこれらのことによって身を汚したからである。」
「わたしはその地にその悪の罰を負わせ、その地は住民を吐き出したのである」
レビ記18章24節25節。

ヨシュアに全滅するように神が言われた民は近親姦と児童を焼き殺すことを平然と行っていた民でした。

18章の冒頭を読むと、エジプトやカナンのならわしに従ってはならないと説き、周辺民族で、近親姦が行われ、子どもを焼く儀式が行われていたことを示唆し、それを行わないようにと勧告しています。

また、他の個所でも、周辺民族の児童焼殺儀式の記述があります。

列王記下3章27節
「そこで彼(モアブ王)は自分に代わって王になるはずの長男を連れて来て、城壁の上で焼き尽くすいけにえとしてささげた。」
列王記下17章31節
「セファルワイム人は子供を火に投じてセファルワイムの神々アドラメレクとアナメレクにささげた」

列王記下3章を読むと、モアブ王はエドム王に勝つために、後継ぎを焼き殺しています。
これを読むと悪神に子どもを生贄として捧げ殺す儀式は、自分の願望を達成するためだったのです。
この子供はおそらく近親姦淫のこどもではないでしょう。
これと近親姦淫との関係ははっきり断定できません。が、近親姦淫でできた子供を自分の願望をかなえるために殺すこともあったのではないかと思います。
また自分の願望達成のため、わざわざ近親姦淫することもあったのでしょうか。(異常な罪の行為と思います)

しかし、それは外部の民だけではありません。
イスラエル自身もその悪神と堕落した他民族の影響で、そうした悪しき儀式を行っていたのです。

エレミヤ書やエゼキエル書はそれをはっきり語っています。
またヨシヤ王の改革もイスラエル人がそれをしていたことを示しています。



3 児童焼殺儀式と悪魔崇拝


そんな気味の悪い、おぞましい儀式をしたのは、もしかしたら、そういうことで願いがかなえられた例があったのかもしれません。悪神モレクの力を人々がまざまざと感じたためかもしれません。


このおぞましい罪の背後には悪魔崇拝があったのではないかと推測も荒唐無稽なものではないと思います。
この子供を捧げられる悪神であるモレクが悪魔だったという推測もあり得るとおもいます。

イスラエルがソロモン王の後に、レハベアムとヤロブアムにより分裂した際のヤロブアムの行動に次の記述があります。

「ヤロブアムは、聖なる高台、山羊の魔神、自ら造った子牛に仕える祭司を自分のために立てた」
歴代誌下11章15節(新共同訳)

山羊の魔神とは、悪魔のことではないでしょうか。

King James Bible(欽定訳聖書)では、山羊の魔神の個所に、Devilsの言葉が使われています。

悪魔がアダムとエバのいた世界の初源から存在していたのなら、この時代にも、モレクとして悪しき人々が崇拝していた可能性は否定できないでしょう。



4 現代人の罪と児童焼殺儀式

これははるか過去の話で、現代において関係のない話でしょうか?
私はそうは思いません。

私は近親姦淫の禁止を提示する18章に、子どもの焼き殺しを禁止した掟があることについて、近親姦淫で妊娠し出産した子供を抹殺するためではないかという推測を書きました。

姦淫でできた子供を殺すことは、ベンヒンノムの谷で焼き殺すことだけが、禁止すべきことなのではありません。
近代的な病院の中で、科学的技術に基づいて、多くの人に知られない形で、姦淫による子供を殺すことも、ベンヒンノムの谷で焼き殺すことと同様におぞましい罪ではないでしょうか?
出産された子供の焼殺が罪で、出産前に母体の中にいる時には殺人でないと言えるでしょうか?
多くの人に知られないから胎児を殺すことが、子どもをモレクにささげるような罪でないといえるでしょうか。
私は今回書いてみて、堕胎は、ベンヒンノムの谷で子供を焼き殺すようなおぞましい罪なのだと思いました。
それは現代日本でも行われているでしょう。
堕胎は、自分の快楽の罪と自己保身のために、人の命を殺してしまう罪です。

堕胎をする人やさせる人は、それを悪魔崇拝とは思わないでしょうし、そうした人々のほとんどはきっと悪魔崇拝者ではないでしょう。しかし、自分の快楽と保身のために罪もない子供を殺すことは、悪魔的な、悪魔の喜ぶ行為と言っていいではないかと思いました。

さらに言うなら、娼婦との性交や画像・動画で興奮する自慰もそうした子供を殺す罪の一種と言えるかもしれません。
カトリックのフランシスコ会訳聖書のレビ記では、18章の注釈で、「子ども(直訳では種)」とあり、種は精液と解釈できる可能性があります。
娼婦との性交や画像動画での自慰は、偶像を崇拝して種を殺す罪だと言っていいでしょう。

同書の18章の注釈の中には以下の文があります。
「18章は、宗教的、種族的、血族的観点から性生活が神聖であることを述べたものである。性は神から与えられた力であり、人はこの力を用い、神に協力して新生命を造る。新生命は神から来るものであり、神にささげられるべきものであるから、性はきわめて神聖である。」

私はこの意見は正しく、ここに今まで考察した禁止の根本精神があると思います。

性は神聖で厳粛です。それは神の創造行為という崇高な行為の一部なのです。我々は神の創造行為の一翼をになうのです。
そこには快感がありますが、聖書的なあるべき姿を言えば、快感だけを求めてはいけないし、神の神聖な創造行為を偶像にささげてはならないのです。

悪魔の側からすれば、悪魔が求めるのは、悪魔が神さまより高い存在であることを示すことです。
神の創造行為を醜悪に変形し、悪魔が神様より高い存在であるかのように示したいのです。
神の神聖さを穢し、神をあざ笑いたいのです。

人間という最高の被造物が行う崇高な生殖のための性行為という神聖な行為が、神でない偶像への崇拝行為になれば、悪魔は、神を愚弄できて、高慢な快感があるのでしょう。
性の罪の根本にはそうした問題があり、人間が神につくか、悪魔につくかという根本問題が係っていると思います。



5 現代アメリカの児童殺人儀式に関する動画

私がこの文章を書くきっかけには、ある動画を見たことがあります。

https://www.youtube.com/watch?v=2quEVXYOrDc  (特に17分付近)

テッド・ガンダーソンという元FBIロス支部長の悪魔崇拝と児童殺人についての動画です。
この人物がどういう人で、本当に、FBIだったのか?一部のアメリカ人で悪魔崇拝者がいるのか?、どうか、私には確かめられないことです。
しかし、私は、この動画を見て驚き、旧約時代の児童殺人儀式について知らべようという気になりました。

この動画の信憑性はわかりません。
しかし、私は、アメリカ政府が、例えば、大量破壊兵器がないにもかかわらず、イラクを攻撃し、一部の金持ちが、イラクを支配し、石油を手に入れたことが事実であることは知っています。その際に、たくさんの子どもを含むたくさんの人間の命が失われたことも知っています。
さかのぼれば、国際法上許されない、一般市民の空襲や原爆投下を、日本に対してアメリカがして、子どもを含むたくさんんお人間が焼け死んだことも知っています。
リビアでも、シリアでも空爆が行われて、たくさんの人が焼け死んでいます。
アメリカ中心の農業多国籍農業企業モンサントなどの企業が遺伝子組換え作物で世界の農を支配し、インドで綿農家が20万人以上自殺に追い込まれたことも聞いています。

この事実だけでも、現代でも、支配や金や資源のために、悪魔的とも言える殺人が行われたことは分かります。
お金や支配や資源という偶像のための、おぞましい悪魔的な殺人儀式は、現代でもあると私は思います。




6 児童殺人とイエス様

神様は児童殺人の儀式を禁止しています。
旧約聖書にはただひとつの例外を除いて、神ご自身が児童殺人儀式を肯定したことはありません。
アブラハムの例も士師記のエフタの例も神様は肯定したわけではありません。
しかし、ただ一例、神が子どもの殺人を容認した例があります。
それはイエス様の十字架です。
神様は、神ご自身の子どもを十字架で死に人々の生贄になることを容認されました。
他人ではなく神ご自身が自分の子が死ぬ深い痛みを負ったのです。
それは人類の救いの係る全く例外的な特別な例です。
快楽や欲望のためではない、自己犠牲的な愛の極致としての生贄です。
そのことを考えると、深淵を感じます。


おわりに

今回はまた話がとんでしまいました。
しかし、現代にも関係する重要な問題であると思います。
私は現代の悪の問題をずっと最近考えています。
民主主義も人権も奪われた1984年のような世界が来るのではないか。権力者は、それを準備しているのではないか。日本の民衆は、その恐ろしさもわからず、大手マスコミの情報を鵜呑みにして、盲目のようについて行っているのではないか?
そういう気持ちの中で聖書を読んでいます。
本当に戦前の日本の宗教問題についてまた書こうと思っています。





 

イエス様の磔刑への道2 イエス様と群衆

 投稿者:大森  投稿日:2017年 8月19日(土)08時56分20秒
返信・引用 編集済
   今回もイエス様の十字架への道を考えます。

 本来、日本の明治以来の宗教を考察する掲示板なので、その話に戻っていくつもりですが、清水さんに与えられた課題を考えているうちに、聖書を読み返し、勉強になっていると思っています。
 以前は、私は、自分と永遠の真実を語る聖書という観点で読んでいました。
 今回は当時の状況を考えながら、それを現代に当てはめるという作業をしてみると、大変おもしろく、しばらく、これも続けていきたいと思っています。(明治以来の日本の話も平行して考えます)

 イエス様を現実に十字架に追いやって殺したのは祭司たちでした。
 彼らは、神の権威を持ちながら、神のためよりも自らの強欲さにより行動し、民衆を搾取していました。
 しかも、それは隠蔽されたものでした。前回の神殿での商人排除を読むと祭司たちは表面に出ていません。イエス様も祭司たちを名指して批判していません。ただイエス様は、祭司たちには批判の刃が届くように語っています。だから祭司たちはイエス様を殺そうと図ったのですが、イエス様は、あからさまに祭司たちを批判したのではありません。
 おそらく群衆や弟子たちは、その批判の意味をわからなかったのではないでしょうか。
 マルコ伝11章から13章までのエルサレムでの場面を見ると、祭司長、律法学者、長老とイエス様の息詰まる議論がなされますが、弟子たちや群衆の意見は出てきません。

 今回は、イエス様と群衆の関係についてマルコ伝福音書から考えてみます。

 マルコ伝の11章には有名なエルサレム入城の記事があります。
 そこには、群衆が自分の上着をイエス様の通り道に敷き、葉のついた枝を野原から切って敷き、叫んだとあります。群衆はイエス様を歓迎し熱狂してイエス様を迎えたのです。

 その叫びの言葉について、文語訳聖書にはこうあります。

『「ホサナ、讃むべきかな主の名によりて来たる者」讃むべきかな、今し来たる我らの父ダビデの國。「いと高き處にてホサナ」』

 新共同訳ではこうです。

「ホサナ、主の名によりて来られる方に祝福があるように。我らの父ダビデの来たるべき国に、祝福があるように。いと高き所にホサナ。」

 私の持っている新共同訳には、この個所は詩編118編25、26節の引用であると書いてあります。

 文語訳の詩編118編25,26.
「エホバよ。ねがはくはわれらを今すくひたまへ  エホバよねがはくは我らをいま榮えしめたまへ エホバの名によりて來るものは福なり われらエホバの家よりなんぢを祝せり」

 詩編118編の新共同訳。
「どうか主よ、私たちに救いを。どうか主よ、私たちに栄えを。祝福あれ主の御名によりて来る人に。私たちの主の家からあなたたちを祝福する。」

 マルコのこの個所と詩編118編25.26は正確に一致しません。大雑把に一致はしています。
(ホサナは、「救い給へ」という意味です。)

 しかし「讃むべきかな、今し来たる我らの父ダビデの國。(我らの父ダビデの来たるべき国に、祝福があるように。)」という言葉は詩編118編にはこの言葉は完全にありません。

 私が注目するのはこの言葉です。
 これは詩編118の言葉ではありません。

 文語訳ではこの言葉は、「」に囲まれていません。つまり、文語訳ではこれは詩編118編の引用ではないと示しています。

 さらに私の持っているギリシャ語新約聖書(ネステル・アーランド)でこのマルコ伝のこの個所を見ると、この個所は引用を示す斜体のイタリックで書かれていません。この前後の文は斜体のイタリックで書かれていて引用を示しますが、この個所は普通の文と同じ字体です。

 つまり、「讃むべきかな、今し来たる我らの父ダビデの國。(我らの父ダビデの来たるべき国に、祝福があるように。)」という言葉は詩編ではなく、群衆の自身の言葉なのです。

 この言葉の意味は何でしょう?
 まずダビデという武将である王を群衆は、我らの父と呼んでいます。そして、武将の王の国とは武力で作られた国に違いありません。群衆は武将が武力で作る国を讃美して、懇願しているのです。
「早く、武力で我々の国を作ってください。武力で作った国をほめ讃えます」群衆は熱狂してイエスにそう叫んでいるのです。

 この言葉を詩編118編に入れたことは異常なこととは言えません。
 この詩には、外国からの攻撃を、武力によって滅ぼす言葉が含まれています。

 詩編118編10節には「国々はこぞってわたしを包囲するが主のみ名によって私は必ず彼らを滅ぼす」とあります。
 そして当時の群衆はこの詩をローマによって征服、支配されていた自国の姿と重ね合わせて見ていたことは間違いないでしょう。
「讃むべきかな、今し来たる我らの父ダビデの國。(我らの父ダビデの来たるべき国に、祝福があるように。)」という言葉によって、群衆が外国の征服、支配を武力で追い払う武力王を讃美していたことがわかります。そして当時の現実に即して、具体的に言えば、それは、ローマを追い払いユダヤの自立を確立する武力王です。

 この言葉から群衆は、ローマを追い払い、ユダヤの自立を確立する武力王を望んでいた。イエス様をそうした歓呼の声で歓迎したことを見ると、イエス様がローマを武力で追い払う武力王なのだと信じ、歓迎しているのでしょう。

 一方イエス様はロバに乗って入城します。

 これは旧約聖書のゼカリア書9章9.10節の預言の実現です。

 「シオンの娘よ、大いに喜べ、エルサレムの娘よ、呼ばわれ。見よ、あなたの王はあなたのところに来る。彼は義なる者であって勝利を得、柔和であって、ろばに乗る。すなわち、ろばの子である子馬にのる。
私はエフライムから戦車を絶ち、エルサレムから軍馬を断つ。またいくさ弓も断たれる。彼は国々の民に平和を告げ、その政治は海から海に及び、大川から地の果てに及ぶ。」(口語訳)

「シオンの女よ、大いに喜べ、エルサレムの女よ、呼ばわれ。視よ汝の王汝に来たる。彼は正義して、拯救いを賜り、柔和にして、驢馬に乗る。即ち牝驢馬の子なる駒に乗るなり。我エフライムより車を絶ち、エルサレムより馬を絶たん。戦争弓も絶たるべし。彼國々の民に平和を諭さん。其政治海より海に及び。河より地の果てに及ぶべし。」(文語訳)(句読点は大森による挿入)

 ここで示されているのは武力王とは正反対の姿の王です。戦車や軍馬や弓を断ち平和を告げる平和王とでもいえる姿です。
 イエス様はろばに乗って入城しますが、ろばに乗って戦争をするという話は聞いたことがありません。
 子ロバは戦争向きな生き物ではありません。イエス様は柔和で平和のために来たのです。戦争のために来たのではありませんでした。

 イエス様は武力でローマと戦い、ローマを追い出すつもりもなかったし、実際、戦いませんでした。

(しかし、実は、その後、イエス様はローマを征服しました。イエス様は、一本の刀も使わず、平和的にローマを征服しました。
 その後、使徒たちの働きにより、イエス様はローマ人の魂に入りました。そしてローマ人の魂に平和をもたらし、ローマを征服しました。ローマカトリックがその証拠です。イタリアやローマの市民はみなローマカトリック信徒であり、イエス様に征服されたのです。)

 イエス様は、救世主でしたが、武力によって他国を追い出しイスラエルの自立をもたらす救世主ではありませんでした。人々の魂を変えて、神様の愛を受け入れさせ、魂の救いをもたらす救世主だったのです。人々の魂に平和をもたらすことで、世界に平和をもらたす王だったのです。

 エルサレム入城の場面では、群衆とイエス様が一体になって熱狂的な場面があったように見えます。
 しかし真実は正反対でした。イエス様の真の姿を群衆は誤解して、自分に都合のいい姿をイエス様に見て熱狂していたのです。
 イエス様の実態と群衆の認識の間には隔絶がありました。
 イエス様と群衆の間には、深い断絶と無理解があります。群衆の心とイエス様の心は、全く切り離されています。イエス様はこの場面で、群衆に熱狂的に支持されながら、深い孤独を感じていたことでしょう。
 そしてこの群衆の無理解が理解に変わったとき、群衆が期待はずれの救世主の十字架を熱狂的に支持したのです。この場面からイエス様の十字架への道は始まっています。群衆がイエス様の十字架上の死を支持することが始まっていたのです。

 私は、この場面を現代の観点から考えます。

 私は群衆がイエス様の真意を理解できませんでした。真の救い、神の愛、魂の大切さがわかりませんでした。
 しかしイスラエルの自立を求めたこと自体が愚かだったと私は簡単に決めつけられません。
 なぜなら、私がこの掲示板でしばしば取り上げてきたTPPや主要農産物種子法などの話は、まさしく国の自立の話だったからです。日本の国が外国勢力に征服され支配されるのをくい止めたいという気持ちだったからです。国家主権を守る話だったからです。
群衆が国と民族の自立を求めた気持ちは私には理解できます。
私自身が現代において切実に求めているのは日本国の自立です。

 しかし、私はイエス様の信者です。国の自立を求める私と信者としての私をどう考えたらいいでしょう?

 まずイエス様のことを考えるとイエス様のこの地上に来られた一番の目的は、魂の救い、魂の平和、神と人間の調和のためで、国の自立のために来たのではないと言えます。

 しかしながら、イエス様は、人間が国の自立を求めてはいけないとは言ってはいません。

 現にイエス様は、エルサレムの滅亡に言及し、それを避けたい、避けさせたいと切に願っておられました。エルサレムが滅び、国が自立を失い、国の存在自体がなくなることをイエス様は憂い、それを避けることを切に願っておられました。それがイエス様の地上に来られた一番の目的でなくても、重要な問題と考えられていました。

 またイエス様は人々の魂の救いのためだけに働かれたのではありません。
 餓えた人々に食事を与え、病気を治し病者の体の回復を行い、目が不自由な人の目を見えるようにし、歩けない人を歩けるようにしました。魂の救いと直接関係なくても、人々の苦しみを取り除き、人々を不自由から解放し、人々の望む自由と救いを与えました。

 私はTPPなどグローバリズムと規制緩和で医療が悪化し、食料が高騰し、遺伝子組換え食品など体に悪い食品がますますはびこることを憂いていますし、防ぎたいと願っています。病気を治し、食事を与えたイエス様がそのことをしてはいけない悪いことだと言うはずはありません。

 しかしそれは魂の救いではありません。安全な食料が充足し、医療が充実し、日本が海外の悪しき勢力からの搾取が無くなったとしても、それが魂の救いでないのは言うまでもありません。そうした安心、安全な世界で人々が堕落し悪に染まることは往々にしてありうることです。安心、安全な世界でも人間が憎しみ合ったり、孤独に苦しめられたり、隣人を無視して愛を捨て去ることはあるでしょう。安心、安全な世界でも、憎悪、不安、いがみ合い、孤独、恨みなどの負の感情が人の魂の中にあることはあり得るでしょう。人間の心から罪の感情はなくならないでしょう。それらが離婚、児童虐待、盗み、殺人、虚偽などの悪を引き起こすでしょう。
 そうした魂の罪から人々を救い出すのが救世主としてのイエス様の目的です。人々の魂に神様の愛があることであり、イエス様が一番したいことです。しかし、だからといって、医療の充実、安全食品の提供の充実、搾取の防止が無駄なことだったり、してはいけないことなのではありません。医療の充実、安全食品を充実、搾取を防止のためには外国からの経済侵略を防止し、国の自立が必要なのですから、国の自立は無駄なことではありません。

 また私は現在の種々の悪、搾取、格差、奴隷化の背後に悪魔的なものを見ます。
 悪魔の存在を感じます。
 悪魔は、現代に種々の搾取、格差、奴隷化などの悲惨を持ち込み、それを通じて、人々の魂を絶望させ、神はない、愛はない、希望はないと思わせたいのです。その代わりあるのは、貪欲、傲慢、残酷です。悪魔は、貪欲、傲慢、残酷な人々を応援し、それらの人々の願いをかなえ、勝つ者は悪にしたがう人間だと思わせたいのです。そして、人々の神様との関係を弱め、切り、信仰、希望、愛を弱め、絶望に導き、悪魔を崇拝させたがっています。
 それはアダムとエバの時と同じです。最高の被造物である人間の魂を、神のものから悪魔のものにすること、それが悪魔のしたいことです。それと戦うにはしっかりした信仰、そして、希望、愛が必要です。
 私は国の自立を思いながら、それがキリスト教的な戦いだと感じています。
 もし国家神道が本当に強い宗教なら、悪魔に勝てるでしょう。しかし、今の国家神道を信じる国の指導者たちは悪魔的なグローバリズムの手先になり、国民に隠れて、搾取と格差に協力しています。私は、国家神道は大した宗教ではない、国家神道は、明治以来日本の自立を守るためにその支えになってきたが、結局、悪魔的なものに屈する宗教なのだと感じざるを得ません。
 2017年4月に主要農産物種子法を廃止し、で米の種を長年公営で守ってきた努力を破棄しました。
 2017年8月から施行された農業競争力強化支援法でその努力の結晶である種の知見を多国籍企業にタダで与えると決めました。その他、政府金融機関が多国籍農業企業を支援することが決まっています。
 農業多国籍農業企業は、種に特許権をかけて毎年特許種を買わせて農家を搾取、支配することで有名です。
 国家神道信者の首相はじめ国の中枢部は、日本の農を多国籍企業に支配させる道を積極的に選び、日本の農と食を多国籍企業に渡そうとしています。
 何が愛国なのか?
 国家神道の人々など世界的権力に屈する人間なのだと思います。そうでなければ、現政権のこうした政策に積極的に反対してほしいです。
 また日欧EPAにも大枠合意しました。
 TPP並みの影響力を持つ規制緩和に大した議論も国民への情報提供もなく、大枠合意したのです。

 今回は、群衆とイエス様の関係について書いてみました。
 マルコ伝によれば、群衆とイエス様の間には救世主についての考えが正反対と言っていいほど違っており、群衆が誤解していました。その誤解が正解に至ったとき、群衆はイエス様を見放して、裏切られた思いで、十字架刑を熱狂的に肯定したのだと思いました。
 
 

イエス様の磔刑への道~神殿での商人排除と祭司たち

 投稿者:大森  投稿日:2017年 7月 3日(月)07時02分58秒
返信・引用 編集済
  ペテロの殉教について考えようとしましたが、よく考えるとイエス様の十字架をまず考えなければならないと思いました。
イエス様の十字架なくして、ペテロの殉教もないし、イエス様の十字架についての考察は非常に大切だと思いました。
現代社会や1984年の観点からも考察する必要があります。
ただイエス様の十字架はあまりに大きな重大な問題なので、それを丸ごと考察はできません。
十字架という巨大な事実から来る光を通して、私の関心事が影のように浮かび上がることになるでしょう。

一般的にプロテスタント教会では、イエス様の十字と言えば、人類の罪の贖い、身代わりの死、それを信じれば救われるという解釈で語られます。
それについてはプロテスタント教会の牧師にお任せするとして、私は、イエス様の十字架というものを人類の罪と悪を明らかにしたものとしてまず考えたいです。
つまり、当時の人々は、イエス様という慈愛に満ちた存在を、ほとんど満場一致に近い状況で残虐な死刑に処したのです。何という残虐さでしょうか?慈愛に満ちた人物を残虐に殺すとは?
またイエス様は、餓えた民に食物を与え、病をいやしました。そうした人間を殺すとはどういうことでしょうか?飢餓からの救い、病からの救いがいらないというのでしょうか。

イエス様は、自分は天の軍勢を呼べると言っています。
もし、天の軍勢が、ユダヤ教の指導者、ローマ軍を超自然的な方法で制覇し、屈服させたら、多くの人々が、イエス様に平伏し、従ったでしょう。イエス様は、そうされませんでした。もし、そうしたら、人々はローマ軍をも制覇した暴力に平伏したのであって、純粋な慈愛に屈したのではなくなるからです。ドストエフスキーのいう自由な愛を純粋に求めたのではなく、暴力への奴隷的隷属に屈したことになるからです。

が、人々が純粋な慈愛に対しては、自由な愛ではなく、憎悪、侮辱、暴力で応じました。まるで人間の中に潜む最悪の罪が吐き出されたようです。人々はイエス様にこれでもかと思うほど、憎悪し、侮辱と暴力を加えました。

ここでイエス様の十字架刑の場面で、どんな種類の人間がいたのかを、書いてみます。
ユダヤ教の祭司たち、ローマ兵、ポンテオピラト、群衆、弟子たち。そして、悪魔。

今回は祭司たちとイエス様の十字架について考察してみます。

ユダヤ教のパリサイ人、祭司たちとイエス様は完全に対立しています。
祭司長たちがイエス様を殺そうとして画策し、死に至らしめたことは、福音書から明らかです。
「祭司長たちや民の長老たちが、カヤパという大祭司の中庭に集まり、策略をもってイエスを捉えて殺そうとした。」マタイ26.4、他マルコ14.1.ルカ22,2。ヨハネ11.53、福音書のすべてが祭司長たちがイエス様を殺そうと画策したことを明言しています。
現世的にみれば、イエス様の磔刑の原因は、祭司長たちにあります。

ではなぜイエス様と祭司長たちは対立したのでしょう?

イエス様が祭司長たちを批判したからです。イエス様と祭司長の対立について、今回はマルコ伝従って考察します。
マルコ伝福音書によれば、イエス様がエルサレム入城を果たしました。そしてその後、神殿の庭で売り買いしていた人を暴力的に追い出します。その直後、祭司長たちと律法学者は、「どうかしてイエスを殺そうと計った」とあります。マルコ伝に従えば、イエス様の磔刑への道は現世的にはこの時始まったのです。しかし祭司長はイエス様を支持する群衆を恐れてそれができませんでした。

この場面をもう少し分析してみます。
まず、目立つのはイエス様の暴力です。
「汝の隣人を愛せよ」「敵を愛せよ」「裁くな」という教えをしたイエス様が何をしているんだ?と不思議に思います。正直、私には、この暴力を肯定していいのかどうか、戸惑います。

戸惑いはあるのを前提として考えますと、ここでは神殿において商人たちが重要な罪を犯していたことを感じます。
それは、祭司長も律法学者もイエス様の行為の意味を責めないことでもわかります。祭司長たちはイエス様を殺したいのですから、イエスさまがしたことが間違っていれば、それは絶好の機会です。それを追求してイエス様を逮捕すればいいのですから。
祭司長たちは、イエス様の行為の目的も暴力という手段も批判しません。それを原因に逮捕もしません。
それは祭司長たちもイエス様も行為を「正当だ。間違っていない。間違っていると非難できない」と思っていることを示しています。

私は現代にそれを比べてみました。
もし公共の場である公園で、勝手に店を開いて商売したらどうでしょう?はじめは警官が来て撤去するように説得するでしょう。もしそれに応じなければ、最終的には強制撤去という暴力的手段で店を移動するでしょう。我々はそれについて不当だとは思いません。「そんなところで商売する人間が悪いからしょうがないだろう」と思います。
イエス様の行為はそうした行為です。ユダヤ人にとって神の律法が法律でしたから、神の律法違反は、現代の法律違反と同じような感覚でしょう。最悪、暴力による撤去もありえるでしょう。イエス様は、神から使わされた警察官として、不当占拠した商人を強制撤去したのです。

ここで問題になるのは、イエス様が神の警察官であるかどうか、です。もし私人が勝手に強制撤去すれば、そこには権威がないので、それを実行する立場にありませんし、別の犯罪になるでしょう。

イエス様が神の警察官であるのかどうか?
祭司長たちは撤去事件の次の日にはイエス様に聞きます。「なんの権威でこうしたことをするのか?」と。
これは、私の言い方に変えれば「お前は神の警察官なのか?」ということです。
これには罠が仕掛けられています。
もし「私は神に使わされた者だ」と言えば、勝手に自分を高め、神を冒瀆したとして訴える口実になります。
「そうでない」と言えば、「私人が勝手に暴力を振るった」ということで訴えられます。

イエス様はバプテスマのヨハネを持ち出して、祭司長たちの曖昧さを突きます。
「本当に神の権威だったバプテスマのヨハネに対して、あなたたちは、曖昧な態度しかとらなかったではないか?あなたたちは、本当に神の権威について真剣に考えているのか?自分たちがまず神の権威について、自分たちが神の警察官にようにふるまっているのか?神を求めて、従っているのか?」そうした祭司長たちの曖昧さ、真剣に神に従うことを考えない態度について追及することで確答を避けます。
イエス様が逃げているのではないと思います。イエス様には十字架につく覚悟がありますが、まだやるべきことが残っている、言うべきことが残っている、その使命を果たすためにまだ時間が必要だということなのだろうと思います。
また祭司長たちの曖昧さや偽善性を示すことが神様の御旨でもあったのだと思います。

私は、ここまで書いてきて、「(そして彼らに言われた)、『それなのにあなたがたはそれ(神殿)を強盗の巣にしてしまった』」という言葉の重要性に気が付きました。この言葉について考えてみます。

神殿では強盗のような行為が行われていました。つまり、神の権威を悪用して、不当で重大な搾取を一般民衆からしていたということです。

きっとこんなことが行われていたのでしょう。

神殿ではいけにえの動物を手に入れ神に生贄を捧げなければなりません。しかし、その生贄の動物を購入する際には神殿で、不当なほど多額のお金をを出さなければ生贄を買えず、神への捧げものができないシステムだったのでしょう。
鳩を売るものという記述が生贄を売る商人を示しています。レビ記5章7節に生贄についての以下の記述があります。
「もし小羊の手が届かないときは、山鳩二羽か家鳩のひな二羽かを、彼の犯した罪のための償いとして主に携えてきて、一羽を罪祭に一羽を燔祭にしなければならない」

また、神殿で物を買うためには両替をしなければ神殿で物が買えない状態になっていたのでしょう。しかし、両替手数料として不当で多大な額が請求されたのに違いありません。
神への信仰のため来た人々は、強盗に2重に3重に搾取されて金を支払わなければ、信仰の行為ができなくなっていたのでしょう。
イエス様は商人たちの追い出し、両替人の台や鳩売りの椅子をくつがえして、上記の「(神殿は祈りの家と唱えられるべきなのに)、それなのにあなたがたはそれ(神殿)を強盗の巣にしてしまった」というのです。

イエスは、その言葉を「彼ら」に言います。つまり商人たちや両替人たちに言うのです。(彼らの原文ではautoisが使われ、「彼ら」と訳すのが正しいはずです。新共同訳では「人々に」と訳されていますが、間違いと思います。口語訳でも「彼ら」、KingJamesBibleでも、ギデオン英文でも「them」と訳されています。イエス様の話の相手は商人や両替人です。)

私は、「神殿を強盗の巣にしてしまった」という言い方に注目します。彼ら(商人、両替人)は、神殿を強盗の巣にしてしまったのです。これを読むと、彼ら(商人、両替人)が強盗ではなく、彼らが、強盗の道を開き、強盗の協力をして、強盗を神殿に招き入れたように読めます。もし、イエス様が、商人が強盗だと思ったら、「お前たちは強盗だ」というのではないでしょうか?
私は、商人や両替人は、神様への信仰心で神殿にやってくる庶民から高い生贄や手数料を取って搾取していたと推測します。しかし、そうした搾取による利益を最終的に手にしていたのは、商人たちではなく、祭司たちだったのではないでしょうか?商人、両替商は祭司たちの命令で、神殿で暴利を搾取する商売をしていたと思います。強盗行為がここで平然と行われる手助けを商人たちはしていた、しかし、それを計画し暴利を最終的に手にしていたのは、祭司たちだったのでしょう。
大体、神殿で祭司たちの命令もなく商人が勝手に商売をして暴利をむさぼることができるはずはないでしょう。神殿を支配していたのは祭司たちだったに違いありません。商人たちは祭司たちの支配下にあるはずです。

だから、イエス様は、それに手を貸した商人たちに、「神殿を強盗の巣にしてしまった。」=「お前たち自身が強盗ではないが、強盗の手助けをして神殿に強盗をのさばらせる状況に協力した」言ったのではないでしょうか?

だから、次の瞬間に、祭司たちは、「これを聞いてイエスを殺そうとした」のでしょう。
自分たちの悪が暴かれ、彼らの隠していた強欲な罪の姿を「強盗」という言葉であからさまに示したイエス様を排除しなければならないと考えたのでしょう。


「それなのにあなたがたはそれ(神殿)を強盗の巣にしてしまった」という言葉は商人や両替人に対する悔い改めの勧告です。言い換えれば、商人や両替人にはまだ悔い改めてやりなおす可能性があるとイエス様は見ていたのでしょう。それと同時に祭司たちに対する挑戦であると言えます。

イエス様が祭司たちが悔い改めるということを考えていないようです。
祭司たち、学者たちの罪は深く、心は悪に染まっており、神に立ち返ることが大変困難と思っているようです。イエス様の商人に対する暴力的対応は、商人たちそのものだけでなく、むしろ、祭司たちに対する強烈な批判であり、対立の意思表示です。イエス様は祭司たちに関して、宣戦布告をしているように見えます。
その戦線布告に対して、祭司たちは、すぐにイエス様の完全排除=殺害で応じようと決心します。

磔刑への道は現世的にはこの時、祭司たちにより開きました。祭司たちが、神の権威を盗み、強引さで庶民から搾取する強盗であることを、イエス様があからさまに示したことで、祭司たちが自分たちの権威、強盗的搾取、神さまに背く罪を隠そうとする欲求から、イエス様が磔刑につくことになったのです。

最後に私は現代を考えます。

現代では、今まで書いたように、我々庶民の生活の根幹である、米、麦、水、漁業権、医療、などを、多国籍企業とその株主という世界的権力者たちが、特許権などで私物化し、庶民を搾取しようとしている計画が進んでいることを感じています。それは表面に現れず、多くの庶民が知りません。

米、麦、水、漁業権、医療は神様が人間に生活に必要だとして、人間に平等に与えたものです。
イエス様は、餓えた人々に食物を与えました。水も神様が人間に与えたものです。イエス様はペテロにたくさんの魚を捕らせました。イエス様は病の人々を癒しました。
世界的権力者は、神様が与えた人々に必要なものを奪う強盗です。

イエス様の時代の祭司たち、権力者、権威者たちの強盗的搾取と現代の権力者の強盗的搾取を比べて、二つは、重なり合っているように私には見えます。
イエス様はそうした強盗のような搾取と断固として戦ったのです。

ペテロには触れられませんでしたが、長くなったので一度ここで投稿することにいたします。

 

参考に

 投稿者:大森  投稿日:2017年 6月22日(木)10時55分40秒
返信・引用 編集済
  清水様。
共感いただいてありがとうございました。
私がかつて聖書について書いた文章を参考にあげておきます。
見ていただければ幸いです。

モーセと神の出会いについて
http://www.geocities.jp/gentishasin2/bunretu1

律法について
http://www.geocities.jp/gentishasin2/bunretu2

マタイとパウロについて
http://www.geocities.jp/gentishasin2/bunretu3

ヘレニズムと伝道の書
http://www.geocities.jp/gentishasin2/bunretu4
 

イエスと共にいたペテロ

 投稿者:清水  投稿日:2017年 6月17日(土)08時14分40秒
返信・引用
  大森さん、取税人マタイ、パウロ、ペテロの論述、たいへん教えられます。ペテロについてでは、イエスとの直接的体験が深く濃かった点が着目されます。直接体験は自分以外の人にも大いなる力を発揮しますね。大森さんの論述では次の文章に収斂されます。
 彼の体験そのものが、キリスト教の中心であり、その後のキリスト者の人生の典型的見本になったのです。
 

共謀罪、監視社会、1984年、信仰、神

 投稿者:大森  投稿日:2017年 6月14日(水)23時55分24秒
返信・引用
  ペテロの信仰について考えるうちに、現在の状況とリンクする件について書きたくなりました。

現在、共謀罪が参議院で検討されており、これがもし通れば、盗聴、メール・インターネット閲覧記録・ファイスブックなどSNS情報、GPSの位置特定、キャッシュカードやクレジットカード・・ポイントカードなどが警察に見られる形になり、政府に知られてしまうようです。
さらにマイナンバー関係で、税金、収入、さらには健康診断結果なども見られるかもしれません。

私は最近Gオーウェルの1984年を読み返しています。
この作品を若い時に読んで陰惨な表現に苦しくなり、ここまでひどいことが起きるだろうかと思いました。

今、1984年を読むと現代と近未来の予言ではないかと思ってしまいます。
タイトルも2020年とした方がいいかも。

こうした状況で、私は、ペテロの受けた迫害と殉教について考察する気持ちになりました。

ペテロが殉教したかどうかは、新約聖書ではわかりません。ヤコブ・デ・ウォラギネという人の黄金伝説という本には、ペテロが殉教したことや、逆さ磔にかかったことが書かれているようです。

イエス様が十字架で死去されたことは間違いないのですからペテロが殉教したとしても何の不思議はありません。ペテロが殉教したという前提で書きます。違っていれば他の殉教者について考えるということになります。

まず、一番先に書きたいのは、信仰者にとって、殉教は、決して、敗北ではなく勝利だということです。
殉教者は信仰の勝者であり、英雄です。
殉教者は、哀想な人なのではなく、最大の尊敬を捧げられる、褒めたたえられるべき人間です。
現世より、自分の命より神様とキリスト様を選べた人間、信仰の最高地点まで到達できた人間です。殉教者は、信仰者が目指す目標であり、手本です。

迫害によって、人間的力、地上的力により、信仰を捨てた棄教者こそ、敗北者です。
神様より地上の力を取った罪深い、愚かな弱い人間です。

殉教者には精神の勝利があります。信仰の勝利があります。

私がオーウェルの1984年を読んで、一番恐ろしいと思ったのは、権力者が「殉教者を出さない。私たちは反逆者を治療する」と話し、実行したことです。
権力者は、反逆者の反抗行動には何の関心を持たないのです。そうではなく、精神の自由そのものに関心を持ち、精神の自由を破壊し隷属させることを実行するのです。完全な洗脳を達成するのです。
これは非常に恐ろしいことです。
なぜなら完全な洗脳とは、人間が精神を失うことだからです。
人間が精神の自由を失うことは何よりも恐ろしいことです。
そこに人生の目的がある、人生最高のものがある。なぜなら、我々が短い現世の人生を終えて、来世に行くときにもっていけるのは精神だけだからです。魂だけだからです。
イエス様はおっしゃいました。
「世界を手にしても、人間が魂を失ったら何の意味があるだろうか?」
(プロテスタント聖書では、魂は生命と訳されています。原語はプシュケーです。これには魂と命の両方の意味がある。カトリックでは、プシュケーは魂と訳されています。この方がいいと思います。命では地上的な命と誤解される可能性がある、ここでは永遠的な命いいかえれば魂における高い部分を指しているはずです)
この世界を手にしても魂を失っては何も意味はない。
魂は永遠の世界に入ります。この地上のすべてのものを手放して、永遠の世界に入るのです。

問題のすべては自分の魂なのです。
自分の魂が信仰、希望、愛をもっているか、信仰、希望、愛をもって死後の世界に行けるかどうか?
それとも、絶望、無力感、自責の念、恐怖、罪責観、傲慢、そうしたものをもって来世に行くのかどうか?
自分の魂が神様の愛に満ちた世界を望むのか?それとも隷属や欲望の充足や罪への愛をもって死後の世界に行くの?
自分の罪をイエス様が赦したという神への信仰をもって行けるのか?
イエス様の赦しに神の愛を感じて、自分を神様に変えられたのか、どうか?
イエス様の十字架を自分のものと感じ、自分もイエス様の十字架にともにかかり、古い自我が死んだのかどうか?
自分の魂がどういう状態で永遠の世界に行ったのかどうかが、永遠の世界で問われることなのであり、我々は煙のように消えてしまうこの現世での一時的な試練に満ちた滞在を終えて、永遠の世界に入るときに問われることなのです。
そして一時的な一瞬のような現世に比べて、永遠の世界こそが真の世界なのです。

オーウェルの1984年において、権力者は、その魂を変えてしまうというのです。
権力者は、暴力、激痛、空腹、侮辱などあらゆる苦しみを、主人公に与えて、主人公を変えます。

権力者は、全知のごとく、主人公のすべての行動を調べて知っています。
こっそり書いた日記も、会話も、秘密の恋人とのやりとりも、党に対する裏切り的行為も、すべて、権力者が知っています。
これを読むとエドワードスノーデン氏の言うアメリカ政府がすべてのメール、インターネット閲覧検索、掲示板やブログの書き込み(もちろんこの書き込みも含みます)、電話通話のすべての情報を管理し、いつでも見ることができるという言葉を思い出します。
さらに、共謀罪が成立すれば、政府警察の盗聴が合法となり、生活の様々な場所の盗聴器が設置されて、我々の会話が傍受されて保管され、逮捕された場合の証拠として提出されるのです。

こうした権力者の全知のような情報収集が1984年の主人公の無力感を強め、主人公の精神的屈従を加速させるのです。

しかし、私は思います。
1984年は神なき世界の物語、キリストなき世界の物語です。
1984年の主人公は、この世の中に、何か精神的なもの、原理的なもの、悪が勝てないものがあると洗脳が完成する前に言います。
その直後、権力者は「神の存在を信じるか?」と主人公に問います。主人公はそれに対して「いいえ」と答えます。

1984年の世界が神なき世界において人間が究極には何をするかを描いた小説と言えるかもしれません。
人間には神がどうしても必要なのであり、また、神が存在するのですから、人間は神を信じ従っていきるしかないし、それが人間にとっての幸いなのです。
途中でどんな試練に会ったとしても。

私は神様を信じます。イエスキリスト様を信じます。
神が愛であること、全知であること、正義であること、悪に打ち勝つこと、人間の罪を赦し、人間の魂を善いように変えることを信じます。

権力がいかに世界中に情報網を張り巡らせ、個人情報を知り、人間の政府に都合の悪い精神を罰し、反政府活動を弾圧し、暴力で正義や人権を踏みにじり、原発で生活を破壊された人間の十分な保証もせず、原発の放射能の数値が下がらず除染もできていないのに危険地域への帰宅を促し、放射性物質の瓦礫を日本全国にばらまき無責任に無関係な人間の押しつけ、お米や水道など生活上不可欠な生活必需品の供給を強欲な多国籍企業に渡し一般人が搾取される方向で政策を秘密に進め、日本の生活が破壊されても何とも思っていません。そうした悪政の中、暴力と嘘と冷酷さで国民が窮地に落とされようとしています。

人間は罪人です。
罪と知りながら罪を犯す人、罪を犯し続けもはや良心が麻痺してしまった人、恐怖で悲惨に目を向けられない弱い罪びと、幼年期の悲惨ゆえ認知が狂ってしまい高圧者を庇護者とみてしまう人、傲慢なまでの自己欲望の肯定者もいます。

こうした罪びとの世界の中、私は神を信じ、永遠の世界を信じ、この現世において自分の魂が信仰、希望、愛を失わず生きることを祈ります。

究極的には人間を支配することを目指し、残酷な行為をする権力者の中で、神を信じ、暴力によって信仰を汚されないように祈りながら生きるしかないと思います。

私は、おそらく共謀罪が成立し、監視社会になり、民主主義が激しく脅かそうとする権力者に恐れを感じているのでしょう。1984年もその文脈で読み、自分の信仰が大丈夫かを心配しているのでしょう。

まとまらない文章になりました。
ペテロの迫害と殉教については次回また書きます。

今回は共謀罪成立を直前に一キリスト者が何を考えたのかを、メモのような形で書いた文章で発表します。
歴史的にみても、日本の民主主義が衰弱しているこの時代に一人の人間の感想を残すことに多少意味があるように思いました。

 

共謀罪は本当に恐ろしい

 投稿者:大森  投稿日:2017年 6月14日(水)15時09分27秒
返信・引用 編集済
  共謀罪が成立しそうで、あまりにも恐ろしいので、今回はその感想を書きます。

共謀罪が今週中に成立するかもしれません。
これは恐ろしい法案です。
テロ対策なんて嘘。
急にテロとか言い出して、前文にも載せなかったじゃないですか。

弁護士は、一般市民の市民活動が対象だと言いますが、その通りだと思います。
https://www.youtube.com/watch?v=HEuCTM2TAho&t=2318s
https://www.youtube.com/watch?v=UdJrHguFjy8

テロと関係ない法案がたくさんあります。
ざっと上げてみると、特許法、著作権法、水道法、保険業法、種苗法、消費税法、法人税法、労働基準法など。
さらに、日米安保と日米地位協定に関する刑事特別法。また、H23年原発事故の放射性物質の対処に関する特別措置法。

TPPやグローバリズムからの関係からすれば、特許法、著作権法、保険業法などを使えば、多国籍企業の利益に反する活動をすれば共謀罪に引っかかる可能性が出てきます。
水道法は、水道民営化が進んでおり民営化された水道が高額になって反対運動したら、共謀罪に引っかかる可能性があります。
種苗法は、種や苗の特許を持っている企業を守る法律です。
主要農産物種子法を廃止して、多国籍企業が米の種を支配しはじめようという現代、種苗法が共謀罪に入っていることも恐ろしいです。米の値段が4~10倍に上がるという専門家の意見もある中、それへの批判も共謀罪にひっかかる可能性がある。

消費税が上がり、法人税が下がっても、反対もしにくくなります。

日米安保と地位協定の刑事法を共謀罪で使えば、反基地運動は弾圧されるでしょう。
H23年原発事故の放射性物質の対処に関する特別措置法を共謀罪で使えば、原発汚物処理に関して批判活動はできなくなるのでは」ないでしょうか。8000ベクレルの放射性汚染物質があなたの隣に来ても批判、反対ができなくなるのでは?

E・スノーデン氏という元CIA職員であまりの政府の監視のひどさに、告発暴露してロシアに亡命した人物の話だと、アメリカ政府は、全世界の人のEメール、通話、インターネット閲覧情報を全て保管していて、検索して見ることができるのだそうだ。そして、日本にもその情報を提供していると。

日本政府に共謀罪ができると、我々の全メール、インターネット閲覧・検索、通話が政府が見放題になり、いつでも逮捕できる状態になります。

最悪、水道料が4倍になり、米代が10倍になり、福島原発の8000ベクレルの放射性物質がすぐ隣に来て、
医療費が特許料であがり、盲腸手術で700万円かかる、そんな状態になっても、反対・批判すれば、逮捕されるのではないかと怯えて、言いたいことも言えない状況になるかもしれません。

もはや主権在民の民主主義の国でも、基本的人権を重視する国でもないでしょう。
圧制独裁の国。

考えられない事態です。

大体、実行もしていない犯罪を罪に定めるのはおかしい。(そうした計画段階でテロ防止する法律はすでに日本にあると弁護士が言っていた。)

テロ対策といいながらテロと関係ない法律を多数載せるのはおかしいです。

なぜ前回の7月の選挙で投票率が50%くらいだったのでしょう。
日本の民主主義とは何なんでしょう。

強権に隷属したいのでしょうか?

本当に恐ろしい事態だと思います。




 

ペテロの信仰④ マタイ、パウロと比較して考える

 投稿者:大森  投稿日:2017年 6月 8日(木)14時16分41秒
返信・引用 編集済
  ペテロについて考えるうちに、他の弟子についても言及したくなりました。

 私は、かつて聖書についての文章を書き、その中で、マタイとパウロを比較したことがあります。

 それと重複するところもありますが、マタイとパウロについて書く中で、ペテロを逆に振り返ってみます。




1 マタイ伝福音書とマタイ

 まずマタイから論じます。

 マタイ福音書はユダヤ的だと言われます。

 確かに、そういう面はあると思います。
 マタイ福音書のイエス様の人生は、ユダヤの歴史と重なり合うように書かれています。
 イエス様は、父ヨセフによりエジプトに連れていかれます。父ヨセフは、夢で示しを受ける人です。
 これは夢解きのできるヨセフにイスラエル民族がエジプトへ連れていかれた旧約聖書、創世記の記述と重なりあっています。
 イエス様はその後、山の上で律法の完成である垂訓を伝えますが、これは、旧約聖書の出エジプト記のホレブ山でのモーゼの律法の授受と重なり合っています。
 21章では群衆はイエスを預言者だと思っており、預言者の伝統とも重なります。
 十字架はバビロン捕囚と重なり、復活は神殿復興と重なっています。

 詳しくは略しますが、マタイは旧約聖書のイスラエルの歴史を意識してイエス様の人生を描いています。

 これは、試練の中で失敗し罪の歴史をつくったイスラエル人と正反対に、イエス様が、イスラエルの歴史の試練と同じ試練を受け、試練を正しく乗り越え、イスラエルの罪の歴史を義の歴史に塗り替えていくことを示そうとしているのだと思います。
 マタイによれば、イエス様はイスラエルの罪を、義に塗り替える、罪深いイスラエルを救う者なのです。

 しかし最終的にはマタイは、イエス様の人生は、イスラエル人だけでなく、全世界の人々を救うものです。
「すべての国民を弟子とせよ。」(28章)
 マタイ伝はイエス様の生涯をその言葉(教え、道徳律)とイエス様の行動(病人を癒し、飢えを救うなどの救いの行動)に分けて描いています。それは、言葉が、契約上の信者の義務にあたり、行動が権利にあたります。マタイ伝は、信者(契約者)の義務と権利を記した契約書なのです。全世界の国民に向けた契約書なのです。

 私は、マタイの人生を思います。
 マタイは取税人でした。ローマの手先であり、イスラエルの裏切り者の立場の人間だったのです。多くのイスラエル人からの除け者にされ、相手にされない孤独な人生だったはずです。
 マタイは、イスラエル人でありながら、イスラエル人の誇りを持てず、多くの人から「イスラエル人の裏切り者」と切り離された異端の人間です。
マタイは、孤立感と疎外感に苦しめられた人間に見えます。

 そうした彼が、イエスキリスト様こそ真のイスラエルであり、イエス様の弟子になることが真のイスラエルとつながることだ、イエス様の弟子になることこそが罪から脱却した本当の義なるイスラエル人になることだと知ったら、マタイにとってイエス様こそが救いの源と思うでしょう。

 イスラエルの異端のマタイが、イエス様のそうした面を強調し、そこに自分の救いを見出したことはマタイの苦渋に満ちた人生から考えると切実な思いだったように感じられます。

 そして彼は、イスラエル人の異端者である自身の救いを全世界の人々に広げるのです。

 ギリシャ語のマタイ福音書がマタイその人の文章ではないかもしれません。
 しかし原マタイ伝にマタイの魂の刻印はしっかりと押されていたはずであり、マタイの弟子たちはマタイの信じたイエス様を信じたに違いありません。




2 パウロの思想と信仰

 一方パウロはマタイとは正反対です。パウロはパリサイ人であり律法の遵守者です。
 イスラエルの中心の律法の中心にいたイスラエル伝統の正統派です。

 ところがパウロは、イエス様との出会いによって、その正統性を真正面から否定するようになったのです。
 律法によっては救われない。律法によっては義と認められない。彼は、彼が属し誇りに思っていた律法をはっきり否定します。
 ある意味マタイと正反対な人生をパウロは歩きました。
 マタイはイスラエルの異端者から真のイスラエルの正統を目指したのです。
 一方、パウロはイスラエルの正統から否定者になりました。

 私は今回、加藤隆氏の本を読み返して再発見したのは、パウロは、生きているイエス様に会ったことはなかったという事実です。
 これはよく考えると重要な事実です。

 普通に考えれば、ある人間がイエス様の弟子になろうとしても、生きているイエス様に会っていないということは、実際に会った弟子たちに話を聞いて信じなければ、弟子になれないということです。
 昇天したイエス様は地上にはいないのでイエス様の情報は実際に会った弟子たちが独占しています。弟子を通して情報を得ないと、イエス様の信者になれないはずです。実際にイエス様に会った人々以外は、弟子たちの弟子(孫弟子)になるしか信者になる道はないはずです。

 しかしパウロは弟子の弟子になるのではなく、イエス様から直接、教えていただいたと主張するのです。
 それはダマスコ付近での神秘体験やその他の神秘体験によるものです。
 しかし、イエス様の霊に会ったという神秘体験の真実性をはっきり保証するものは、客観的にはありません。
 「パウロ、お前自身が見たというのは嘘ではないか?」
 「夢ではないか?」
 「もしかしたら悪魔がイエス様の教えを捻じ曲げるために、お前を騙して幻を見せたのではないか?悪魔の幻を、お前が真実と思い込んでいるだけではないのか?」
 「アナニアも悪魔に教えられたのではないか?」
 そう質問されて、パウロは客観的証拠を提出できません。

 パウロは、実際にイエス様に会った弟子たちより現世的に考えれば、根拠の薄い場所に立っています。

 ガラテア書の冒頭でパウロは性急な自己紹介をします。
「人々からでもなく、人によってでもなく、イエスキリストと彼を死人からよみがえらせた父なる神によって建てられた使徒パウロ」

 ここにはどの弟子の弟子になったこともない、神様から、イエス様から直接、教えを受け、使徒になったのだというパウロの強い主張があります。

 一方、イエス様に直接会っている弟子たちからは「何言っているんだ。会った我々よりも、会ってもいないパウロが自分こそがイエス様の真実を一番知っていると言っていいたいのか。おかしいではないか?会っていない人間がなぜ、会っている人間より真実を知っていると主張できるのか?」という批判が上がった可能性も感じます。

 パウロはコリント人への第一の手紙2章で「私はイエスキリスト、しかも十字架につけられたイエスキリスト以外のことは何も知るまいと決心したからである」と書きます。

 これを読むと、「直接イエスキリスト様に会った弟子の情報などあまり意味はない。福音書に書かれたイエス様の言動録も意味がない。ただイエス様の十字架と復活にのみ意味がある」とパウロが主張しているようにさえ読めます。

 しかし、歴史を知る我々はパウロの書簡が新約聖書の重要な位置を占め、パウロが偉大な使徒とされていることを知っています。
歴史の証明を見る限り、パウロは使徒だったのです。
 しかし不思議なことです。
 イエス様に直接会わなかったパウロが、イエス様の人生の真実をよく知っていたということです。




 3 ペテロの信仰

 こうした他の弟子たちと比べたペテロはどうでしょう?

 ペテロが、マタイのようなイスラエル人としての孤立感、疎外感に苦しめられたようには思えません。
 彼は貧しいながら安定した漁師だったようです。イスラエル人世界の中で彼の居場所はありました。

 また孤立感、疎外感に苦しめられたマタイが、福音書で、イエスキリストとはどういう存在なのかという神学的、民族的な説明をしたような学識や神学的探求心もペテロにはないようです。

 ペテロはもっと素朴であり、素直な信仰者でしょう。

 彼は、イエス様に会い、敬愛し、尊敬し、崇拝し、信者になったのです。

 パウロと比べてどうでしょうか?

 ロマ書を読めば、パウロに神様、旧約聖書、世界、人間、罪、救いについて広範な見識があることがわかります。パウロは十字架のイエスを中心としてそれらを整然と説明する力がありました。
 パウロはパリサイ人の思想を信じていたため、神学的確信、神学的自己把握・世界把握がありました。
 しかし、それをイエス様に、ひっくり返されたため、自分の神学知識を元に、新たな世界観、メシア観を書きました。
 彼には、ペテロよりも正確な自己把握があったと思います。
 また神学的理解があったと思います。

 ペテロには、パウロのような、ロマ書のような神学書を書くような神学知識、哲学的知識、考察力もなかったでしょう。
 またペテロには、パウロのような正確な自己把握もなかったでしょう。

 ペテロは、「キリストとは誰か?何者か?それを信じたあなたとは誰か?」と問われても正確に答えることは困難だっただろうと思います。

 しかしペテロには誰よりも、イエス様との実生活を共にした深い体験があります。そして説明できないが深い信仰があります。彼は、「誰が何といっても、わたしがイエス様のことを一番知っている」と思ったでしょう。

 しかしペテロには神学的知識がなくても、ペテロの体験自体が神学であり、救いの説明でした。
 ペテロは神学を理解できなくても、神学を体験し、神学を生きたのです。

 ペテロがもし、ロマ書を読んだ際には、「きっとこの書には自分の人生が書かれている」と思ったと思います。罪人であること、神様とイエス様が全き慈愛で自分を愛してくださること、イエス様の十字架が自分の罪のためであること、イエス様が復活されたこと、そして信者に聖霊が与えられ心が変えられることなど、自分の人生そのものだと思ったに違いないと思います。

 ペテロは、イエス様と共に過ごし、イエス様に愛され、イエス様をペテロなりに愛し、裏切り、赦され、聖霊を与えられ、聖化されて一歩一歩人生を歩んだ人です。
 教理や神学や哲学には疎かったと思いますが、彼の人生そのものが教理であり、神学でした。
 彼の体験そのものが、キリスト教の中心であり、その後のキリスト者の人生の典型的見本になったのです。




 4 矛盾した表現と永遠の真実

 私は、マタイ、パウロ、ペテロの三人に弟子たちの姿を描きました。

 そして新約聖書に書かれているマタイ伝、ロマ書などが全然違う観点でイエス様について書かれて、矛盾している面もあると考えています。

 しかし、それでいいのだと思います。

 イエス様は一人ですが、イエス様の解釈は様々であってもいいと思います。なぜなら、イエス様自身は解釈を超えた存在、あるいは様々な解釈を含んだ存在であってしかるべきと思います。
 もしある人間についての説明が、その人間より上だとしたらおかしいです。
 人間は、説明より解釈より上で、複雑で、上位の存在です。

 イエス様についての矛盾した見方、思想がすべて一人のイエス様を目指しています。

 プロテスタント教会では、パウロの信仰義認を重んじがちで、マタイの山上の垂訓など行いをすることは視野に入らないことも起こります。
 また、マタイの山上の垂訓とパウロの信仰義認の矛盾を無視して、それぞれに語ってしまうこともあります。そうしたことは、プロテスタント教会も問題点だと私は思っています。

 矛盾は矛盾として見据えて、そうして矛盾しても矛盾の向こうにいるイエス様を信じることが大切だと思います。
 弟子の誰もイエス様を正確に完全に理解し記述した人はいない。しかし、弟子たちは一人一人、自分の人生をかけてイエス様を理解しぎりぎりの表現をしました。それは矛盾しているが書かれていても、それでいいのだと思います。
 

日本政府は日本の漁業権も多国籍企業に開放するつもりのようです。

 投稿者:大森  投稿日:2017年 5月28日(日)08時24分57秒
返信・引用
  今回は、TPP訴訟の会や日本の種子を守る有志の会で活躍されている山田正彦さんのブログからの情報です。拡散を希望されているので、情報提供いたします。

日本の漁民の漁業権を政府は多国籍企業に開放するらしいです。

関心のある方は元の記事を読んでください。


https://ameblo.jp/yamada-masahiko/

以下は記事の文章です。
ブログには新聞記事の紹介もあります。

「 (山田正彦ブログより)

農業新聞に大きく「規制改革会議、漁業改革に着手」とあります。...


日本の漁業は江戸時代から畑を持たない漁民が前浜の漁獲できる権利を自分達のものとして漁を営み海を大事に守って来たのです。(入会の財産権)

戦後、法律で都道府県知事は前浜の共同漁業権を地元の漁業協同組合のものとして優先的に与えて来たのです。

ところが規制改革会議の案では、漁業権を企業(外資を含む)にも平等に公開で入札できるように見直しするものです

このことは日本が批准したTPP協定環境の章20章16条及び10章越境サービスの付属書Ⅱでは日本の沿岸での漁民の優先的な権利は認められていない。

日本はケルシ―教授、トーマスカトウ弁護士の指摘にもあるように、日本の沿岸での漁は、企業、外国漁船にも解放することになるのです。

こうなったら、NZの沿岸もそうでしたが、英国がEUに参加して、ノルウェー、オランダの漁船に沿岸を荒らされて漁民がEU離脱運動の先頭にたったように。

日本の漁業は大変なことになります。

このことはTPP協定に2016年2月署名時の交換文書「日本政府は米国の投資家の要望を聞いて、規制改革会議に付託し、そのの提言従う」とあるからです。 」
                              
 

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