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 投稿者:大森  投稿日:2017年 6月22日(木)10時55分40秒
返信・引用 編集済
  清水様。
共感いただいてありがとうございました。
私がかつて聖書について書いた文章を参考にあげておきます。
見ていただければ幸いです。

モーセと神の出会いについて
http://www.geocities.jp/gentishasin2/bunretu1

律法について
http://www.geocities.jp/gentishasin2/bunretu2

マタイとパウロについて
http://www.geocities.jp/gentishasin2/bunretu3

ヘレニズムと伝道の書
http://www.geocities.jp/gentishasin2/bunretu4
 
 

イエスと共にいたペテロ

 投稿者:清水  投稿日:2017年 6月17日(土)08時14分40秒
返信・引用
  大森さん、取税人マタイ、パウロ、ペテロの論述、たいへん教えられます。ペテロについてでは、イエスとの直接的体験が深く濃かった点が着目されます。直接体験は自分以外の人にも大いなる力を発揮しますね。大森さんの論述では次の文章に収斂されます。
 彼の体験そのものが、キリスト教の中心であり、その後のキリスト者の人生の典型的見本になったのです。
 

共謀罪、監視社会、1984年、信仰、神

 投稿者:大森  投稿日:2017年 6月14日(水)23時55分24秒
返信・引用
  ペテロの信仰について考えるうちに、現在の状況とリンクする件について書きたくなりました。

現在、共謀罪が参議院で検討されており、これがもし通れば、盗聴、メール・インターネット閲覧記録・ファイスブックなどSNS情報、GPSの位置特定、キャッシュカードやクレジットカード・・ポイントカードなどが警察に見られる形になり、政府に知られてしまうようです。
さらにマイナンバー関係で、税金、収入、さらには健康診断結果なども見られるかもしれません。

私は最近Gオーウェルの1984年を読み返しています。
この作品を若い時に読んで陰惨な表現に苦しくなり、ここまでひどいことが起きるだろうかと思いました。

今、1984年を読むと現代と近未来の予言ではないかと思ってしまいます。
タイトルも2020年とした方がいいかも。

こうした状況で、私は、ペテロの受けた迫害と殉教について考察する気持ちになりました。

ペテロが殉教したかどうかは、新約聖書ではわかりません。ヤコブ・デ・ウォラギネという人の黄金伝説という本には、ペテロが殉教したことや、逆さ磔にかかったことが書かれているようです。

イエス様が十字架で死去されたことは間違いないのですからペテロが殉教したとしても何の不思議はありません。ペテロが殉教したという前提で書きます。違っていれば他の殉教者について考えるということになります。

まず、一番先に書きたいのは、信仰者にとって、殉教は、決して、敗北ではなく勝利だということです。
殉教者は信仰の勝者であり、英雄です。
殉教者は、哀想な人なのではなく、最大の尊敬を捧げられる、褒めたたえられるべき人間です。
現世より、自分の命より神様とキリスト様を選べた人間、信仰の最高地点まで到達できた人間です。殉教者は、信仰者が目指す目標であり、手本です。

迫害によって、人間的力、地上的力により、信仰を捨てた棄教者こそ、敗北者です。
神様より地上の力を取った罪深い、愚かな弱い人間です。

殉教者には精神の勝利があります。信仰の勝利があります。

私がオーウェルの1984年を読んで、一番恐ろしいと思ったのは、権力者が「殉教者を出さない。私たちは反逆者を治療する」と話し、実行したことです。
権力者は、反逆者の反抗行動には何の関心を持たないのです。そうではなく、精神の自由そのものに関心を持ち、精神の自由を破壊し隷属させることを実行するのです。完全な洗脳を達成するのです。
これは非常に恐ろしいことです。
なぜなら完全な洗脳とは、人間が精神を失うことだからです。
人間が精神の自由を失うことは何よりも恐ろしいことです。
そこに人生の目的がある、人生最高のものがある。なぜなら、我々が短い現世の人生を終えて、来世に行くときにもっていけるのは精神だけだからです。魂だけだからです。
イエス様はおっしゃいました。
「世界を手にしても、人間が魂を失ったら何の意味があるだろうか?」
(プロテスタント聖書では、魂は生命と訳されています。原語はプシュケーです。これには魂と命の両方の意味がある。カトリックでは、プシュケーは魂と訳されています。この方がいいと思います。命では地上的な命と誤解される可能性がある、ここでは永遠的な命いいかえれば魂における高い部分を指しているはずです)
この世界を手にしても魂を失っては何も意味はない。
魂は永遠の世界に入ります。この地上のすべてのものを手放して、永遠の世界に入るのです。

問題のすべては自分の魂なのです。
自分の魂が信仰、希望、愛をもっているか、信仰、希望、愛をもって死後の世界に行けるかどうか?
それとも、絶望、無力感、自責の念、恐怖、罪責観、傲慢、そうしたものをもって来世に行くのかどうか?
自分の魂が神様の愛に満ちた世界を望むのか?それとも隷属や欲望の充足や罪への愛をもって死後の世界に行くの?
自分の罪をイエス様が赦したという神への信仰をもって行けるのか?
イエス様の赦しに神の愛を感じて、自分を神様に変えられたのか、どうか?
イエス様の十字架を自分のものと感じ、自分もイエス様の十字架にともにかかり、古い自我が死んだのかどうか?
自分の魂がどういう状態で永遠の世界に行ったのかどうかが、永遠の世界で問われることなのであり、我々は煙のように消えてしまうこの現世での一時的な試練に満ちた滞在を終えて、永遠の世界に入るときに問われることなのです。
そして一時的な一瞬のような現世に比べて、永遠の世界こそが真の世界なのです。

オーウェルの1984年において、権力者は、その魂を変えてしまうというのです。
権力者は、暴力、激痛、空腹、侮辱などあらゆる苦しみを、主人公に与えて、主人公を変えます。

権力者は、全知のごとく、主人公のすべての行動を調べて知っています。
こっそり書いた日記も、会話も、秘密の恋人とのやりとりも、党に対する裏切り的行為も、すべて、権力者が知っています。
これを読むとエドワードスノーデン氏の言うアメリカ政府がすべてのメール、インターネット閲覧検索、掲示板やブログの書き込み(もちろんこの書き込みも含みます)、電話通話のすべての情報を管理し、いつでも見ることができるという言葉を思い出します。
さらに、共謀罪が成立すれば、政府警察の盗聴が合法となり、生活の様々な場所の盗聴器が設置されて、我々の会話が傍受されて保管され、逮捕された場合の証拠として提出されるのです。

こうした権力者の全知のような情報収集が1984年の主人公の無力感を強め、主人公の精神的屈従を加速させるのです。

しかし、私は思います。
1984年は神なき世界の物語、キリストなき世界の物語です。
1984年の主人公は、この世の中に、何か精神的なもの、原理的なもの、悪が勝てないものがあると洗脳が完成する前に言います。
その直後、権力者は「神の存在を信じるか?」と主人公に問います。主人公はそれに対して「いいえ」と答えます。

1984年の世界が神なき世界において人間が究極には何をするかを描いた小説と言えるかもしれません。
人間には神がどうしても必要なのであり、また、神が存在するのですから、人間は神を信じ従っていきるしかないし、それが人間にとっての幸いなのです。
途中でどんな試練に会ったとしても。

私は神様を信じます。イエスキリスト様を信じます。
神が愛であること、全知であること、正義であること、悪に打ち勝つこと、人間の罪を赦し、人間の魂を善いように変えることを信じます。

権力がいかに世界中に情報網を張り巡らせ、個人情報を知り、人間の政府に都合の悪い精神を罰し、反政府活動を弾圧し、暴力で正義や人権を踏みにじり、原発で生活を破壊された人間の十分な保証もせず、原発の放射能の数値が下がらず除染もできていないのに危険地域への帰宅を促し、放射性物質の瓦礫を日本全国にばらまき無責任に無関係な人間の押しつけ、お米や水道など生活上不可欠な生活必需品の供給を強欲な多国籍企業に渡し一般人が搾取される方向で政策を秘密に進め、日本の生活が破壊されても何とも思っていません。そうした悪政の中、暴力と嘘と冷酷さで国民が窮地に落とされようとしています。

人間は罪人です。
罪と知りながら罪を犯す人、罪を犯し続けもはや良心が麻痺してしまった人、恐怖で悲惨に目を向けられない弱い罪びと、幼年期の悲惨ゆえ認知が狂ってしまい高圧者を庇護者とみてしまう人、傲慢なまでの自己欲望の肯定者もいます。

こうした罪びとの世界の中、私は神を信じ、永遠の世界を信じ、この現世において自分の魂が信仰、希望、愛を失わず生きることを祈ります。

究極的には人間を支配することを目指し、残酷な行為をする権力者の中で、神を信じ、暴力によって信仰を汚されないように祈りながら生きるしかないと思います。

私は、おそらく共謀罪が成立し、監視社会になり、民主主義が激しく脅かそうとする権力者に恐れを感じているのでしょう。1984年もその文脈で読み、自分の信仰が大丈夫かを心配しているのでしょう。

まとまらない文章になりました。
ペテロの迫害と殉教については次回また書きます。

今回は共謀罪成立を直前に一キリスト者が何を考えたのかを、メモのような形で書いた文章で発表します。
歴史的にみても、日本の民主主義が衰弱しているこの時代に一人の人間の感想を残すことに多少意味があるように思いました。

 

共謀罪は本当に恐ろしい

 投稿者:大森  投稿日:2017年 6月14日(水)15時09分27秒
返信・引用 編集済
  共謀罪が成立しそうで、あまりにも恐ろしいので、今回はその感想を書きます。

共謀罪が今週中に成立するかもしれません。
これは恐ろしい法案です。
テロ対策なんて嘘。
急にテロとか言い出して、前文にも載せなかったじゃないですか。

弁護士は、一般市民の市民活動が対象だと言いますが、その通りだと思います。
https://www.youtube.com/watch?v=HEuCTM2TAho&t=2318s
https://www.youtube.com/watch?v=UdJrHguFjy8

テロと関係ない法案がたくさんあります。
ざっと上げてみると、特許法、著作権法、水道法、保険業法、種苗法、消費税法、法人税法、労働基準法など。
さらに、日米安保と日米地位協定に関する刑事特別法。また、H23年原発事故の放射性物質の対処に関する特別措置法。

TPPやグローバリズムからの関係からすれば、特許法、著作権法、保険業法などを使えば、多国籍企業の利益に反する活動をすれば共謀罪に引っかかる可能性が出てきます。
水道法は、水道民営化が進んでおり民営化された水道が高額になって反対運動したら、共謀罪に引っかかる可能性があります。
種苗法は、種や苗の特許を持っている企業を守る法律です。
主要農産物種子法を廃止して、多国籍企業が米の種を支配しはじめようという現代、種苗法が共謀罪に入っていることも恐ろしいです。米の値段が4~10倍に上がるという専門家の意見もある中、それへの批判も共謀罪にひっかかる可能性がある。

消費税が上がり、法人税が下がっても、反対もしにくくなります。

日米安保と地位協定の刑事法を共謀罪で使えば、反基地運動は弾圧されるでしょう。
H23年原発事故の放射性物質の対処に関する特別措置法を共謀罪で使えば、原発汚物処理に関して批判活動はできなくなるのでは」ないでしょうか。8000ベクレルの放射性汚染物質があなたの隣に来ても批判、反対ができなくなるのでは?

E・スノーデン氏という元CIA職員であまりの政府の監視のひどさに、告発暴露してロシアに亡命した人物の話だと、アメリカ政府は、全世界の人のEメール、通話、インターネット閲覧情報を全て保管していて、検索して見ることができるのだそうだ。そして、日本にもその情報を提供していると。

日本政府に共謀罪ができると、我々の全メール、インターネット閲覧・検索、通話が政府が見放題になり、いつでも逮捕できる状態になります。

最悪、水道料が4倍になり、米代が10倍になり、福島原発の8000ベクレルの放射性物質がすぐ隣に来て、
医療費が特許料であがり、盲腸手術で700万円かかる、そんな状態になっても、反対・批判すれば、逮捕されるのではないかと怯えて、言いたいことも言えない状況になるかもしれません。

もはや主権在民の民主主義の国でも、基本的人権を重視する国でもないでしょう。
圧制独裁の国。

考えられない事態です。

大体、実行もしていない犯罪を罪に定めるのはおかしい。(そうした計画段階でテロ防止する法律はすでに日本にあると弁護士が言っていた。)

テロ対策といいながらテロと関係ない法律を多数載せるのはおかしいです。

なぜ前回の7月の選挙で投票率が50%くらいだったのでしょう。
日本の民主主義とは何なんでしょう。

強権に隷属したいのでしょうか?

本当に恐ろしい事態だと思います。




 

ペテロの信仰④ マタイ、パウロと比較して考える

 投稿者:大森  投稿日:2017年 6月 8日(木)14時16分41秒
返信・引用 編集済
  ペテロについて考えるうちに、他の弟子についても言及したくなりました。

 私は、かつて聖書についての文章を書き、その中で、マタイとパウロを比較したことがあります。

 それと重複するところもありますが、マタイとパウロについて書く中で、ペテロを逆に振り返ってみます。




1 マタイ伝福音書とマタイ

 まずマタイから論じます。

 マタイ福音書はユダヤ的だと言われます。

 確かに、そういう面はあると思います。
 マタイ福音書のイエス様の人生は、ユダヤの歴史と重なり合うように書かれています。
 イエス様は、父ヨセフによりエジプトに連れていかれます。父ヨセフは、夢で示しを受ける人です。
 これは夢解きのできるヨセフにイスラエル民族がエジプトへ連れていかれた旧約聖書、創世記の記述と重なりあっています。
 イエス様はその後、山の上で律法の完成である垂訓を伝えますが、これは、旧約聖書の出エジプト記のホレブ山でのモーゼの律法の授受と重なり合っています。
 21章では群衆はイエスを預言者だと思っており、預言者の伝統とも重なります。
 十字架はバビロン捕囚と重なり、復活は神殿復興と重なっています。

 詳しくは略しますが、マタイは旧約聖書のイスラエルの歴史を意識してイエス様の人生を描いています。

 これは、試練の中で失敗し罪の歴史をつくったイスラエル人と正反対に、イエス様が、イスラエルの歴史の試練と同じ試練を受け、試練を正しく乗り越え、イスラエルの罪の歴史を義の歴史に塗り替えていくことを示そうとしているのだと思います。
 マタイによれば、イエス様はイスラエルの罪を、義に塗り替える、罪深いイスラエルを救う者なのです。

 しかし最終的にはマタイは、イエス様の人生は、イスラエル人だけでなく、全世界の人々を救うものです。
「すべての国民を弟子とせよ。」(28章)
 マタイ伝はイエス様の生涯をその言葉(教え、道徳律)とイエス様の行動(病人を癒し、飢えを救うなどの救いの行動)に分けて描いています。それは、言葉が、契約上の信者の義務にあたり、行動が権利にあたります。マタイ伝は、信者(契約者)の義務と権利を記した契約書なのです。全世界の国民に向けた契約書なのです。

 私は、マタイの人生を思います。
 マタイは取税人でした。ローマの手先であり、イスラエルの裏切り者の立場の人間だったのです。多くのイスラエル人からの除け者にされ、相手にされない孤独な人生だったはずです。
 マタイは、イスラエル人でありながら、イスラエル人の誇りを持てず、多くの人から「イスラエル人の裏切り者」と切り離された異端の人間です。
マタイは、孤立感と疎外感に苦しめられた人間に見えます。

 そうした彼が、イエスキリスト様こそ真のイスラエルであり、イエス様の弟子になることが真のイスラエルとつながることだ、イエス様の弟子になることこそが罪から脱却した本当の義なるイスラエル人になることだと知ったら、マタイにとってイエス様こそが救いの源と思うでしょう。

 イスラエルの異端のマタイが、イエス様のそうした面を強調し、そこに自分の救いを見出したことはマタイの苦渋に満ちた人生から考えると切実な思いだったように感じられます。

 そして彼は、イスラエル人の異端者である自身の救いを全世界の人々に広げるのです。

 ギリシャ語のマタイ福音書がマタイその人の文章ではないかもしれません。
 しかし原マタイ伝にマタイの魂の刻印はしっかりと押されていたはずであり、マタイの弟子たちはマタイの信じたイエス様を信じたに違いありません。




2 パウロの思想と信仰

 一方パウロはマタイとは正反対です。パウロはパリサイ人であり律法の遵守者です。
 イスラエルの中心の律法の中心にいたイスラエル伝統の正統派です。

 ところがパウロは、イエス様との出会いによって、その正統性を真正面から否定するようになったのです。
 律法によっては救われない。律法によっては義と認められない。彼は、彼が属し誇りに思っていた律法をはっきり否定します。
 ある意味マタイと正反対な人生をパウロは歩きました。
 マタイはイスラエルの異端者から真のイスラエルの正統を目指したのです。
 一方、パウロはイスラエルの正統から否定者になりました。

 私は今回、加藤隆氏の本を読み返して再発見したのは、パウロは、生きているイエス様に会ったことはなかったという事実です。
 これはよく考えると重要な事実です。

 普通に考えれば、ある人間がイエス様の弟子になろうとしても、生きているイエス様に会っていないということは、実際に会った弟子たちに話を聞いて信じなければ、弟子になれないということです。
 昇天したイエス様は地上にはいないのでイエス様の情報は実際に会った弟子たちが独占しています。弟子を通して情報を得ないと、イエス様の信者になれないはずです。実際にイエス様に会った人々以外は、弟子たちの弟子(孫弟子)になるしか信者になる道はないはずです。

 しかしパウロは弟子の弟子になるのではなく、イエス様から直接、教えていただいたと主張するのです。
 それはダマスコ付近での神秘体験やその他の神秘体験によるものです。
 しかし、イエス様の霊に会ったという神秘体験の真実性をはっきり保証するものは、客観的にはありません。
 「パウロ、お前自身が見たというのは嘘ではないか?」
 「夢ではないか?」
 「もしかしたら悪魔がイエス様の教えを捻じ曲げるために、お前を騙して幻を見せたのではないか?悪魔の幻を、お前が真実と思い込んでいるだけではないのか?」
 「アナニアも悪魔に教えられたのではないか?」
 そう質問されて、パウロは客観的証拠を提出できません。

 パウロは、実際にイエス様に会った弟子たちより現世的に考えれば、根拠の薄い場所に立っています。

 ガラテア書の冒頭でパウロは性急な自己紹介をします。
「人々からでもなく、人によってでもなく、イエスキリストと彼を死人からよみがえらせた父なる神によって建てられた使徒パウロ」

 ここにはどの弟子の弟子になったこともない、神様から、イエス様から直接、教えを受け、使徒になったのだというパウロの強い主張があります。

 一方、イエス様に直接会っている弟子たちからは「何言っているんだ。会った我々よりも、会ってもいないパウロが自分こそがイエス様の真実を一番知っていると言っていいたいのか。おかしいではないか?会っていない人間がなぜ、会っている人間より真実を知っていると主張できるのか?」という批判が上がった可能性も感じます。

 パウロはコリント人への第一の手紙2章で「私はイエスキリスト、しかも十字架につけられたイエスキリスト以外のことは何も知るまいと決心したからである」と書きます。

 これを読むと、「直接イエスキリスト様に会った弟子の情報などあまり意味はない。福音書に書かれたイエス様の言動録も意味がない。ただイエス様の十字架と復活にのみ意味がある」とパウロが主張しているようにさえ読めます。

 しかし、歴史を知る我々はパウロの書簡が新約聖書の重要な位置を占め、パウロが偉大な使徒とされていることを知っています。
歴史の証明を見る限り、パウロは使徒だったのです。
 しかし不思議なことです。
 イエス様に直接会わなかったパウロが、イエス様の人生の真実をよく知っていたということです。




 3 ペテロの信仰

 こうした他の弟子たちと比べたペテロはどうでしょう?

 ペテロが、マタイのようなイスラエル人としての孤立感、疎外感に苦しめられたようには思えません。
 彼は貧しいながら安定した漁師だったようです。イスラエル人世界の中で彼の居場所はありました。

 また孤立感、疎外感に苦しめられたマタイが、福音書で、イエスキリストとはどういう存在なのかという神学的、民族的な説明をしたような学識や神学的探求心もペテロにはないようです。

 ペテロはもっと素朴であり、素直な信仰者でしょう。

 彼は、イエス様に会い、敬愛し、尊敬し、崇拝し、信者になったのです。

 パウロと比べてどうでしょうか?

 ロマ書を読めば、パウロに神様、旧約聖書、世界、人間、罪、救いについて広範な見識があることがわかります。パウロは十字架のイエスを中心としてそれらを整然と説明する力がありました。
 パウロはパリサイ人の思想を信じていたため、神学的確信、神学的自己把握・世界把握がありました。
 しかし、それをイエス様に、ひっくり返されたため、自分の神学知識を元に、新たな世界観、メシア観を書きました。
 彼には、ペテロよりも正確な自己把握があったと思います。
 また神学的理解があったと思います。

 ペテロには、パウロのような、ロマ書のような神学書を書くような神学知識、哲学的知識、考察力もなかったでしょう。
 またペテロには、パウロのような正確な自己把握もなかったでしょう。

 ペテロは、「キリストとは誰か?何者か?それを信じたあなたとは誰か?」と問われても正確に答えることは困難だっただろうと思います。

 しかしペテロには誰よりも、イエス様との実生活を共にした深い体験があります。そして説明できないが深い信仰があります。彼は、「誰が何といっても、わたしがイエス様のことを一番知っている」と思ったでしょう。

 しかしペテロには神学的知識がなくても、ペテロの体験自体が神学であり、救いの説明でした。
 ペテロは神学を理解できなくても、神学を体験し、神学を生きたのです。

 ペテロがもし、ロマ書を読んだ際には、「きっとこの書には自分の人生が書かれている」と思ったと思います。罪人であること、神様とイエス様が全き慈愛で自分を愛してくださること、イエス様の十字架が自分の罪のためであること、イエス様が復活されたこと、そして信者に聖霊が与えられ心が変えられることなど、自分の人生そのものだと思ったに違いないと思います。

 ペテロは、イエス様と共に過ごし、イエス様に愛され、イエス様をペテロなりに愛し、裏切り、赦され、聖霊を与えられ、聖化されて一歩一歩人生を歩んだ人です。
 教理や神学や哲学には疎かったと思いますが、彼の人生そのものが教理であり、神学でした。
 彼の体験そのものが、キリスト教の中心であり、その後のキリスト者の人生の典型的見本になったのです。




 4 矛盾した表現と永遠の真実

 私は、マタイ、パウロ、ペテロの三人に弟子たちの姿を描きました。

 そして新約聖書に書かれているマタイ伝、ロマ書などが全然違う観点でイエス様について書かれて、矛盾している面もあると考えています。

 しかし、それでいいのだと思います。

 イエス様は一人ですが、イエス様の解釈は様々であってもいいと思います。なぜなら、イエス様自身は解釈を超えた存在、あるいは様々な解釈を含んだ存在であってしかるべきと思います。
 もしある人間についての説明が、その人間より上だとしたらおかしいです。
 人間は、説明より解釈より上で、複雑で、上位の存在です。

 イエス様についての矛盾した見方、思想がすべて一人のイエス様を目指しています。

 プロテスタント教会では、パウロの信仰義認を重んじがちで、マタイの山上の垂訓など行いをすることは視野に入らないことも起こります。
 また、マタイの山上の垂訓とパウロの信仰義認の矛盾を無視して、それぞれに語ってしまうこともあります。そうしたことは、プロテスタント教会も問題点だと私は思っています。

 矛盾は矛盾として見据えて、そうして矛盾しても矛盾の向こうにいるイエス様を信じることが大切だと思います。
 弟子の誰もイエス様を正確に完全に理解し記述した人はいない。しかし、弟子たちは一人一人、自分の人生をかけてイエス様を理解しぎりぎりの表現をしました。それは矛盾しているが書かれていても、それでいいのだと思います。
 

日本政府は日本の漁業権も多国籍企業に開放するつもりのようです。

 投稿者:大森  投稿日:2017年 5月28日(日)08時24分57秒
返信・引用
  今回は、TPP訴訟の会や日本の種子を守る有志の会で活躍されている山田正彦さんのブログからの情報です。拡散を希望されているので、情報提供いたします。

日本の漁民の漁業権を政府は多国籍企業に開放するらしいです。

関心のある方は元の記事を読んでください。


https://ameblo.jp/yamada-masahiko/

以下は記事の文章です。
ブログには新聞記事の紹介もあります。

「 (山田正彦ブログより)

農業新聞に大きく「規制改革会議、漁業改革に着手」とあります。...


日本の漁業は江戸時代から畑を持たない漁民が前浜の漁獲できる権利を自分達のものとして漁を営み海を大事に守って来たのです。(入会の財産権)

戦後、法律で都道府県知事は前浜の共同漁業権を地元の漁業協同組合のものとして優先的に与えて来たのです。

ところが規制改革会議の案では、漁業権を企業(外資を含む)にも平等に公開で入札できるように見直しするものです

このことは日本が批准したTPP協定環境の章20章16条及び10章越境サービスの付属書Ⅱでは日本の沿岸での漁民の優先的な権利は認められていない。

日本はケルシ―教授、トーマスカトウ弁護士の指摘にもあるように、日本の沿岸での漁は、企業、外国漁船にも解放することになるのです。

こうなったら、NZの沿岸もそうでしたが、英国がEUに参加して、ノルウェー、オランダの漁船に沿岸を荒らされて漁民がEU離脱運動の先頭にたったように。

日本の漁業は大変なことになります。

このことはTPP協定に2016年2月署名時の交換文書「日本政府は米国の投資家の要望を聞いて、規制改革会議に付託し、そのの提言従う」とあるからです。 」
                              
 

イエスとペテロ

 投稿者:清水  投稿日:2017年 5月20日(土)09時25分26秒
返信・引用
  初期キリスト教史でのペテロのあつかいや、記述福音書成立のいきさつは興味深く、またとても参考になりました。それと、大森さんのサタンと悪についての捉え方の一端を始めて知る事ができて貴重でした。たいへん、信仰にもとずいた強固な思いがあると感じられました。  

ペテロの信仰 ③

 投稿者:大森  投稿日:2017年 5月16日(火)08時08分35秒
返信・引用 編集済
   共謀罪(テロ準備法)の国会審議が進んでいます。

 政府は、「一般人は対象外」と言っていますが、それはありえないでしょう。逆に一般人こそが対象なのではないかと疑われます。

 (まず、私はインターネットで共謀罪対象法律の政府発表を調べましたが、出てきませんでした。こんな重要な法案について政府はなぜ対象法律を見やすく説明しないのでしょう?。)

 私が調べた中に、対象法律として種苗法が入っています。一体、どうして種苗法がテロと関係するのでしょう?種苗法は、種苗の特許、知的財産権を守る法律です。
 これが共謀罪に入れば、多国籍企業の種子特許保護のため一般国民を監視し処罰する体制ができ、多国籍企業の種子支配への道がますます開かれます。

 また著作権法も対象法律です。

 これにより多国籍企業の知的財産権保護の強化とそのための国民の処罰の強化が進みそうです。それは言論の自由を奪い、自由な発想や批判を押しつぶす方向で働きそうです。

 言論の自由、表現の自由など国民の人権を脅かす法律を強行採決する現政権は、一体何なのかと思います。

 私はかつて共謀罪は、治安維持法よりひどい法律だ、国民のすべての人権を侵す可能性のある法律だと書き、その危惧感は強まるばかりです。

 そんな状況で聖書を読むと、ペテロの生きた時代も厳しい時代だったのだ、圧政・独裁の進む現代以上に厳しく、それに耐えて信仰生活を守ったのだと思います。

 マタイ伝2章では、ベツレヘム周辺の幼児が王の命令で虐殺されたことが記されています。人権もへったくれもない状況です。

 使途行伝4章では、キリストの名により語ることを前面禁止しました。言論統制、宗教弾圧をしています。
 さらにエルサレムはローマにより破壊されました。それに関することが、福音書に書かれてます。マルコ13章、マタイ24章など。

 私は、最近、ペテロの人生を考えながら聖書を読んでいますが、現代に比べても厳しい時代にペテロは生きたのだと思います。

 最近、「新約聖書はなぜギリシャ語で書かれたのか」、「新約聖書の誕生」(ともに加藤隆著)という本を読み返しています。
 この本に、イエス様に関する口承伝承を独占していたペテロなど使徒たち中心のキリスト教会の中で、福音書が出現し、使徒批判になったことが書いてあります。福音書はペテロなどの口伝説教者である使徒への批判なのだという意見はこれを参考に書いています。福音書のペテロ批判についての参考になりますので、一読をお勧めします。

 確かに、福音書を読むと使徒たち(今後は弟子たちと書きます)は、よく書かれていません。

 例えば、弟子たちは、嵐を恐れて信仰が足りない姿を描かれたり、サタンよ引き下がれとイエス様に批判されたり、挙句の果てには、十字架のイエス様を裏切ったり、さんざんな書かれようです。
 福音書が使徒(弟子)批判なのだというのは、納得させられる話です。

 そろそろ今回の本題に入ります。

 わたしは、弟子のイエス様に批判されることの多い、そうした姿を読んで、「それでも、弟子たちはイエス様に従っていったのだ」と思いました。
 「サタン」と批判されて、言ってみれば、信仰者として最悪な罵倒を浴びせられ、人格否定されたとも取れることがあったのです。しかし、ペテロはイエス様に従って行ったのです。

 なぜペテロたちは、一切を捨ててまでも、イエス様に従ったのでしょう。

 それは、私はイエス様に従うことには、深い喜びがあり、それが充実した時間だったからだと思うのです。

 今回はイエス様の公生涯に従った頃のペテロについて書きます。

 ペテロは、ルカ伝によれば、不漁の後でイエス様を船に乗せて説教に付き合ったことがイエス様との出会いです。

 この時、徹夜して不漁という疲れて落ち込んでいる状況でイエス様に出会いました。
 ペテロは、イエス様に何かを感じたのでしょう。そうでなければ船を出すことを断るに違いありません。早く家で寝ようとなるでしょう。しかし、イエス様に何か惹かれるものがあったのです。

 ペテロは船の中、イエス様のすぐ隣という特等席で話を聞いています。
 きっと、話に引き込まれたでしょう。この人は違う、何か特別なすごい人だと思ったのではないでしょうか?
 深い愛、真実を見通す力、神聖さ、神様の実在、そうしたものを感じたかもしれません。魂を揺さぶる感動があり、言っている全部は分からないけれどすごいことを話されている、そんなことを感じたかもしれません。
 すべてを捨てて従ったということなるためには、魂を奪われたような特別な感動があったと感じます。

 弟子がイエス様と公生涯を共にする中で何を感じたのかは福音書にはあまり書いていません。

 それを推測します。

 イエス様は全き慈愛の人であり、全知全能です。

 全き慈愛の人とともにいることはどんな感じでしょうか?
 自分が深く愛されていると感じることはどうでしょう?
 幸福感、満たされた気持ち、深いつながり、感動、そうした感じがあるのではないでしょうか?私には経験がありませんが、祖父母が孫を目に入れてもかまわないほど愛するという話を聞きますが、孫からすればそうした愛から、幸福感、満たされた気持ちを感じるのではないでしょうか?

 イエス様は全知です。ペテロのこともすべてわかっておられます。

 悪魔的な人物が自分のすべてをわかっていたら、恐怖でしょう。
 そこにあるのは、屈辱、脅し、人格否定、奴隷化、そうしたものかもしれません。

 しかし全き慈愛の人が自分のすべてをわかっていてくれたら、どうでしょう。自分の今までの人生、今の悩み、喜び、将来のことをわかってくれたら、どうでしょう?きっと、とてもうれしいでしょう。

 人間は本来孤独なものです。
 自分の理解者がいないからです。自分を愛してくれる人があまり、いないからです。
 しかし全き理解者で完全に自分を愛する人がいてくれたら、どんなにか素晴らしいでしょう。
 もし、恋人が自分のすべてを理解して受け入れてくれて愛してくれれば、深い喜びでしょう。
 また、長く一緒に生活してきた伴侶が自分のことを理解して愛してくれていると実感したら大変なよろこびでしょう。

 ペテロにとってイエス様はそうした方でした。

 また人生には恩師という存在もいます。人間と社会をよく理解していて、未熟な自分に何でも教えて導いてくれる存在。そうした尊敬できる人間がいたら、うれしいでしょう。
 ある人はそうした恩師の導きで職業を決めたり、その恩師と同じ職につき、恩師のようになりたいと思いながら人生を過ごすかもしれません。ペテロにとってイエス様はまさしく恩師でした。

 また、イエス様と過ごす時間には活動がありました。伝道の旅をつづけ、食事の用意をし、群衆を集め、対応し、イエス様の説教を聞く。
 ある若者が、社会を良くする活動に目覚め、それに打ち込めば、充実した時を過ごすでしょう。自分の活動が多くの人の幸せにつながると確信して、活動に打ち込む日々。それは充実しています。

 イエス様と過ごす時間はそうした時間でした。

 また、活動の中に仲間がいます。
 ともに活動し、助け合い、ともに恩師や理想について語り合う仲間。そうした活動の中での仲間には特別な一体感、特別深い関係を結んだ深い絆を感じるでしょう。

 ペテロがイエス様の公生涯を過ごした時間は、そうしたものがすべて含まれた時間だったのだと思います。
 慈愛に包まれ、真理を知り、尊敬する恩師に導かれ、仲間と活動に努力して過ごす時間だったのです。

 ペテロがイエス様から離れなかったのは、そうした喜びと充実に満ちた時間を過ごしていたからでしょう。絶対に離れる気持ちにはならなかったでしょう。
 仕事を捨て、家族を捨てて、ついていったイエス様との時間はそうした喜びと充実の時間だったのでしょう。

 「サタンよ」とイエス様に批判された時も、それは人格否定でも、罵りでもなかったに違いありません。
 それは、「ペテロよ、私はお前を心配している、そう考えてはいけないのだ、神の道をお前は間違って考えている。それではサタンが喜んでしまう。私はお前が心配だ。お前が真理に気が付いてほしいと切に願っている」といった愛と導きに満ちた言葉だったのだと思います。

 しかもイエス様は全能です。
 全能の方が自分の味方であることは何と心強いでしょう。嵐の時も助けてくれるのです。
 悪を滅ぼすこともできます。
 しかし、あえて、すぐに悪を滅ぼさないのです。それは、信仰者の信仰を試し、深め、強め、人間的成長を促すためなのでしょう。信仰者の聖化のためなのでしょう。
 現に、欠点のある至らないペテロは、様々な経験を通じて信仰を成長させて、聖者ペテロといっていいほどに成長しました。


 私はペテロについて考える中で、イエス様の信者がそうした喜びに満ちた人生を送ってしかるべきなのだと思い、反省しました。
 イエス様は私と共におられます。
 慈愛の人、最高の理解者、人生を導く恩師は私とともにおられます。

 この悪い時代にあっても私はみ旨に従って生きて戦わねばいけないと思いました。

 私は、天の軍勢を使わして悪を懲らしめることはすぐにでもできる。だが、そうしない。なぜか、わかるだろう?と言われているように思いました。
 

ペテロ

 投稿者:清水  投稿日:2017年 5月10日(水)16時56分8秒
返信・引用
   この文書はヨハネの弟子によって編集されたものと言われています。ペテロの直系弟子ではないのです。
 そこに不名誉記述の理由の一つがあるのかもしれません。

これは、新しい知識としてたいへん面白く、しかも参考になりました。
 

二度目の侵略

 投稿者:大森  投稿日:2017年 5月 8日(月)12時14分39秒
返信・引用 編集済
   今回はペテロの信仰については、パスして、「独裁の時代が来そうです」の続きを書きます。

 この掲示板で、ずっと探求してきたのは、日本の宗教をどう見るかということです。

 日本の宗教をどう見るかということは、同時に、日本史をどう見るかということです。

 それで、私が日本史を概観して、思うのは、「日本史は、天皇家という外来一族による日本侵略と支配という出来事を、土着の日本人が消化し、天皇家をも日本的象徴として、日本化して、順化して、日本的秩序を作ってきた歴史である」ということです。

 記紀の時代、天皇家が日本を征服していった事実は、記紀を読めば、明らかです。

 おそらく、柳田国男の言うように、天皇家は外来の一族であり、外国からの征服者だったのです。外来の天皇家が外来の高い文明・軍備を利用して、日本を征服して大和朝廷を作りました。

 征服された土着民は、身分の低い人々とされました。征服され、大和朝廷の支配に従った人々の多くは、農民になりました。この時、日本は、米作りの国になったのです。瑞穂の国として日本を呼ぶのは、大和朝廷に征服されて、稲作農業が普及され強制された時です。
 その前は、柳田国男の論じる、山人にように、狩猟採集の民だったのです。
 大和朝廷の時代に漁師、狩人が低く見られたのは、そのためです。

 しかし、土着の民は、その後、支配に耐え続けながら力をつけていきました。

 支配された土着の民が表立って歴史に姿を現すのは、鎌倉時代です。
 武士の台頭する時代です。

 この後、大和朝廷側と土着民の子孫である武士・農民は葛藤しながら、歴史を作っていきます。

 そして戦国時代には大和朝廷側は、完全に力を失い、江戸時代に、土着の民の支配が確立します。

 この歴史の中で重要なことは、土着民は、大和朝廷側の文化を完全に排除しなかったということです。逆に、大和朝廷側の文化を高いものとして扱っていったということです。

 稲作もそうですし、源氏物語のような大和朝廷文化を残していきました。
 天皇家自身も徳川幕府に無くされるということはありませんでした。

 日本人は、外国文化を排除せず、受け入れ、自己流に変化させて、外国文化を役立たせるということは、日本人の特徴として、上げられます。例えば、芥川龍之介の「神々の微笑」にはそうした特徴が描かれています。

 戦後の日本を見ても、外国製の自動車や家電、パソコンなどを模倣し、独自のものを作り、独自の日本文化を作ってきました。

 それは日本人が、大和朝廷文化を破壊せず、評価しながら、自分たちに都合のいいものに変えてきた歴史で培った日本人の能力なのでしょう。

 また、その歴史の中で、天皇家という大和朝廷の中心の一族は、記紀時代の暴力的征服者から、日本的象徴に変化して、順化していきました。

 天皇家の変化は、外国文化を、日本的に変化させて、日本化する日本人の特質を最もよく表していると思います。

 明治以来、欧米文化は日本を征服してきました。それを日本人は、今までのように、日本的に変化させて日本人の生活を豊かにしてきました。

 しかし、これから来る時代、新しい独裁の時代、外国の富裕層が真の支配層である時代は、そうはいかないでしょう。

 現在の世界的富裕層は、記紀の時代に外国からやってきた、暴力的だった天皇家のように、征服と搾取を中心としています。しかし、天皇家のように、日本に住むことはなく、日本に順化することもないでしょう。外国から支配するのですから。

 記紀時代の征服を思うと、土着日本人は、そうした征服に反抗することは少なく、恭順して、虐げられても黙って従っていました。あきらめて従順に搾取と征服に耐え忍びました。
 そして長い時代を耐えて、力を付けました。

 日本人は、暴力的な侵略者、強力な支配者に反抗し、対立することは、少ないと思います。
 そしてずっと順化することなく搾取と侵略を続ける外国富裕層の支配は続く可能性があります。
 歴史を振り返って、見れば、日本人は、その外国の富裕層の侵略と支配に黙って耐え忍び続ける可能性があります。

 悪魔的な世界的富裕層の支配を日本人は受入れ続け、搾取され続けるのでしょうか。

 あるいは、見えない形で支配を確立して、知らされず、盲目のような状態で支配され、搾取され続けるのでしょうか。

 私は、そうした中、日本人のキリスト者の責任は重いと思いました。
 多くの日本人に、真実を伝え、悪魔的支配に対抗していかなければならないと思います。
 

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