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TPP署名、悪夢のTPPが始まる

 投稿者:大森  投稿日:2018年 4月 1日(日)08時01分28秒
返信・引用
  TPPが署名されました。

TPP関連法案も発効していく方向です。

私が縷々書いてきた恐ろしいTPPが始まろうとしているようです。

以下、私がTPPの一つの情報源としている元農林水産大臣、山田正彦氏のブログからの情報です。


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大切なことなので、最後まで読んでシエア拡散して頂けば有難い。

TPP11が今月チリで署名式が行われたが、安倍自公政権は6月中旬にも国会での批准手続きを終えると。




TPP11は米国抜きで30章8000頁のTPP協定に6頁の上書きしたもので、日本にとってはTPPが発効する以上に厳しいことになる。

日経新聞がISDSは凍結されたと報道したが、間違いで事実は政府と投資家との契約が適用されないだけで、日本にとっては何も変わらない。

農産物はTPPで、米国からの農産物の輸入を考慮して決めた枠なので、当然その分の凍結を求めなければならないが、日本だけは何も求めなかった。

カナダ、豪国、NZは米国抜きで関税がどんと下がるので絶好の農産物輸出の好機到来と各国のメデアも大歓迎の報道ぶり。

カナダは当初渋っていたが、トルドーもアベの大盤振る舞いに大喜び、2月16日の政府試算では豚肉を中心に日本政府の影響試算、1500億円を1国の輸出で賄うと。

NZも乳製品で、豪国は牛肉で初年度から倍増の試算を。日本政府は対策を打つので、900億円から1500億円の輸入増に止まると説明する。

政府には対策の具体策はなく、影響はないとしたトマト等の野菜だけでも、関税引き下げで東大の鈴木宣弘教授の研究室の試算では、992億円と。

それにトランプは日本の鉄鋼等に関税25%を要求スーパー301条も日本にも押し付けて、以前からの要求農産物の輸出の倍増が、いずれ現実のものに。

これに日欧EPAがこの春にも署名の動きが。政府はTPP11で農産物の価格は下がるが生産量も自給率にも影響はないと説明。

誰が信じることができようか。

日本の農業は今、音をたてて崩れようとしている。

4月11日6時半から9時まで連合会館(千代田区神田駿河台3の2の11)でTPP分析チームによるTPP11の勉強会。

TPP、自由貿易、グローバリズムで儲かるのは多国籍企業と富裕層だけ。

3月31日1時から5時まで、明治大学リバティタワー1階ホールで「グローバリズムは私達を幸せにするか!?」の映画と講演を致します。

講師は辻信一鈴木宣弘両教授に植草一秀さんのコーディネートです。

私の事務所も事務局を引き受けています。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

以上です。
 
 

ユダヤ教とイスラエルについて

 投稿者:大森  投稿日:2018年 3月 8日(木)11時29分21秒
返信・引用 編集済
   ご無沙汰しております。
 新年になり、賀正の言葉を書かなくてはと思いながら、あっという間に3月です。

 何を書くかいろいろ考えました。

 現代は恐ろしい時代です。
 最近の裁量労働や残業代ゼロ法案を見ても、権力者と富裕層は、国民を奴隷のようにして、過労死させることも、視野に入れているのだろうと思います。
今後書いていきたいのですが、水道が民営化し営利化し多国籍企業が水を支配する法案もちゃくちゃくと準備されているようです。種子法廃止と農業競争力強化支援法で、モンサントなどを政府が応援し、米の種をモンサントなど穀物多国籍企業が支配する道も進んでいます。

 一言で書けば、現代は一部の世界的富裕層が一般人を支配する体制が作られつつある時代であり、一般人の奴隷化が急速に進んでいる時代です。そして一般国民にはそれが知らされず、考えない多くの国民がその流れに流され、気づいている一部の人々が恐怖に震え、そして一部の人々が対抗している状況のように見えます。

 そうした中で宗教も一つの大きな役割を果たしています。

 今回はユダヤ人について書きます。前回のトランプ大統領のエルサレム首都宣言に引き続き、テーマはユダヤ教についてです。

 はじめに私ははっきり書いておきますが、ユダヤ人について、いかなる差別意識もなく、悪意もありません。私にはユダヤ人の知人はなく、具体的なユダヤ人との接触もなく、ユダヤ人差別だけでなく人種差別は悪だと思っています。
 私が以下書いていくのはユダヤ人とユダヤ教の真実を知りたいと思う真理探究心ゆえです。
 なぜユダヤ人とユダヤ教の真実を知りたいかと言えば、一つには、それは私がキリスト者で旧約聖書を読み込み、ユダヤ人に関心を持つためです。
 そして、もう一つの理由は、現代国際社会でユダヤ人が大きな影響力を持っているがゆえです。アメリカの政財界でユダヤ人が多く、そのためアメリカはトランプ大統領をはじめイスラエル国に親近感を持つ人間が大きく、世界や日本にイスラエルとユダヤ人の影響が大きいと考えるのです。その二つの理由で私は探求心でユダヤ教の真実を知りたいのです。

 私は現代のユダヤ人については非常に謎が多く、情報がはっきり公表されていない部分があるように感じるのです。

 私はユダヤ人について最初に疑問を抱いたのは、田川健三という人に「書物としての新約聖書」でした。

 その一部分にこうした意味のことが書かれていました。

 旧約時代のユダヤ人はあの地方に住んでいた人々だから浅黒い人々だった。そして現代で旧約時代のユダヤ人の末裔は現在のイスラエルなどの周辺に住む浅黒い人々だ。

 手元に「書物としての新約聖書」がないので正確な文は書けませんが、注釈にそうした内容が書かれていたのです。

 私は不思議に思いました。
 たしかに、旧約時代のユダヤ人はあの地方の人々なのだから、浅黒いというのはもっともだ。しかし、それなら、なぜ、現代のユダヤ人は白人なのだろう。私は、カフカ、アインシュタイン、マルクス、ウッディアレン、ボブディラン、キッシンジャーなどの白人であるユダヤ人を思い浮かべて不思議に思ったのです。

 それから、私は、小滝透という人の「神の世界史・ユダヤ教」という本を読みました。(この本は手元にあります)
 そこにはハザール人というコーカサス(黒海とカスピ海の間のあたり)地方の民族が8世紀ころにユダヤ教に改宗したというのです。10世紀にキエフ公国とビザンツ帝国にハザール帝国は挟み撃ちにされて、「国土の大半がキエフ公国の版図に入り、大多数のハザール人はロシア系ユダヤ人として取り残された。」と書かれています。また、残りのハザール帝国は、13世紀にモンゴルに襲われて、ハザール国は滅亡した。「膨大なハザール系ユダヤ人はウクライナやポーランドに散っていった」と書いてあります。

 これが白人ユダヤ人の先祖なのでしょうか。

 もし、そうなら白人ユダヤ人が現在のイスラエルに故国に戻る感覚で、戻るのは間違いだし、また神の命令とは言えないのではないでしょうか。白人ユダヤ人は、故国に戻るなら、コーカサスに戻るべきではないかなど思いました。

 私は最近、シュロモー・サンドという人の「ユダヤ人の起源」という本を読みました。(ちくま学芸文庫)
 これによると、1951年以降、この本の出版時期まで「ハザール人についての著作や史書の出版はヘブライ語では一つもない」「イスラエルの公共の場でハザール人の記憶を喚起することは、奇妙で場違いで威嚇的である意思表明だとその都度受け取られるようになった」とのことです。
イスラエル人の中では、ハザール人の情報は隠蔽されてきたというのです。

 私はポールジョンソンというイギリス生まれのジャーナリストの書いた「ユダヤ人の歴史」(上下・徳間書店)という本も読みましたが、この本でもハザール人の記述はありません。

 ハザール人の話や旧約聖書時代のユダヤ人が有色人種であるだろうことを視野に入れて説明しないと、旧約聖書のユダヤ人と白人ユダヤ人を直接結びつけることは、簡単にはできないようです。

 私はシュロモー・サンドという人の「ユダヤ人の起源」という本を読むと驚愕することが書いてあります。この人は、テルアビブ大学名誉教授であり、テルアビブはイスラエルの第二の都市であり、この人はユダヤ人であり、反ユダヤ的な人間ではありません。

 この「ユダヤ人の起源」によれば、ユダヤ人のディスアポラはなかったというのです。ユダヤ人がエルサレムの神殿を破壊された後に、イスラエルから追い出されて世界を放浪したという事実を証拠立てる文献はないというのです。そのため、ユダヤ人の放浪はなかったと考えられるというのです。
 ローマ人にもそれぞれの民族をそこから追放するという政策はないというのです。追放しないでそこで農業などをそのままさせて、税を取る方が安易で有益だからです。
 ユダヤ人の神殿を破壊し自治を奪ったのは確かですが、その土地から追放する理由はローマにはない。何のためにそんなことをする必要があるのかというわけです。
 むしろ自主的に出て行ったユダヤ人の影響で各地方の異民族がユダヤ教に改宗する場合があり、それがエルサレムなどイスラエルのユダヤ人以外の別の国のユダヤ人の存在の理由だというのです。
 つまりヨーロッパや地中海世界にいるユダヤ人の多くは改宗ユダヤ人なのであり、旧約聖書のユダヤ人とは血統も生活地も違う人々がいるということなのです。

 つまりエルサレム周辺から追放され放浪してヨーロッパや地中海周辺の移住したユダヤ人はそんなに多く存在しないことになります。もともとの各地の土着民がユダヤ教に改宗していったというのです。
 そうすると、故郷イスラエルに帰るユダヤ人という我々の持つイメージはどうなるでしょう。

 確かにイエス様の時代にはユダヤ教徒たちは、改宗者を求めており、各地で改宗者を得ていたようです。
 「あなたがたはひとりの改宗者をつくるために海と陸とを巡り歩く」(マタイ伝23章15節のイエス様の言葉)


 次にイスラエルについて不思議なのは、その国旗です。
 いうまでもなくイスラエルの国旗はダビデの星と言われる六芒星です。
 しかし、これをダビデの星というのはおかしいです。なぜならダビデと何の関係もないからです。旧約聖書のどこを読んでも六芒星の記述はでていません。
 旧約聖書でイスラエルを象徴する図像というなら、七本枝の蝋燭立てメトラです。これはまさしく、旧約時代のユダヤ人の象徴です。旧約聖書(レビ記)にしっかりと記述があります。しかし、ダビデの星といわれる六芒星は近代までユダヤ人、イスラエル人に何の関係もありません。私は六芒星をダビデの星と呼ぶことには論拠のないことであり、それについては、情報操作的なものを感じます。
 ウィキペディアによると1648年の30年戦争の際に、イエズス会によって決められたとのことで、ユダヤ教徒が決めたのではないのです。
 さらに19世紀にロスチャイルド家もそれを使用するようになったとのこと。
 ロスチャイルドは、イスラエル建国に大きな影響を及ぼし、テルアビブにはロスチャイルド通りという道もあるそうです。
 キリスト教のイエズス会が決め、ロスチャイルドが家紋にも使った六芒星を、一体誰が、旧約の由来の深いメトラを退けて、イスラエルの国旗に載せたのでしょう。一体何のために、そこにどういう意図があったのでしょうか。

 六芒星は魔術的なマジックサークルで使われることがあるようです。
 そうした宗教的に危険な面を含む図像がなぜ、国旗に使われているのでしょうか。

 私は新約聖書でイエス様がパリサイ人について批判している個所があるのを知っています。

「あなたがたもまた先祖たちがした悪の升目を満たすがよい。へびよ、まむしの子らよ、どうして地獄の刑罰をのがれることができようか」(マタイ伝32、33)
へび、まむし、地獄の刑罰、こうしたものは悪魔と結びつけられるイメージです。
愛と正義の人、イエス様とは思えない、ひどい言い方です。最悪の罵りです。しかし、イエス様は、なぜ、そんな罵りをしたのでしょう。
 私は、以前、旧約時代に、子どもを生贄としてモレクにささげる儀式を旧約時代のユダヤ人の一部がしていることを旧約聖書から考えてみました。子どもを生贄としてささげる儀式は、最悪の宗教儀式であり、悪魔的と言っていいでしょう。
 黙示録にはこうした記述があります。黙示録の著者は、ヒラデルヒアの教会にこう書きます。「見よ。サタンの会堂に属する者、すなわちユダヤ人と自称しているが、その実ユダヤ人ではなくて、サタンの団体に属している者どもから、罵られていることを知っている」
ユダヤ人だと言っていても実は悪魔を崇拝していた人々がいたのです。

 旧約時代のユダヤ人たちは正しいばかり人々ではなかった、ヤーウェへの信仰を見失った人々も多かったし、また幼児を殺す悪魔的な儀式を行っていた人々もいたのです。預言書を読むと、ユダヤの人々が多く、堕落していたことがよくわかります。預言者たちはイスラエルの民の堕落と罪を繰り返し糾弾しています。

 一体ユダヤ人が神に従う人々ばかりなら、なぜ、エリヤは正しかったのに逃亡しなければならなかったのでしょう。エレミヤはなぜ正しいことを言って、井戸の中に降ろされて留置されたのでしょう。
 イエス様は、なぜパリサイ人、祭司長、律法学者に憎まれ十字架につけられようとしたのでしょう。
 もちろん旧約時代のユダヤ人やイスラエル人がすべて間違っていたのではありません。主は、「バールに身をかがめなかった七千人を私は残しておいた」のです。(列王記19・18)
しかし、それは多数派ではありませんでした。

 エルサレムの神殿が崩壊した紀元70年に、ベンザッカイというパリサイ派の祭司が、エルサレムを逃げ出し、その後、ヤブネというエルサレムの西側でユダヤ教統括本部をつくり、ローマと敵対しないユダヤ教がここから始まります。その後のユダヤ教の出発点になります。
 ここを始めたのは、パリサイ人です。
 イエス様が「あなたがたもまた先祖たちがした悪の升目を満たすがよい。へびよ、まむしの子らよ、どうして地獄の刑罰をのがれることができようか」と罵ったパリサイ人。
「偽善なる学者、パリサイ人」、「白く塗りたる墓」「うわべは美しいが中には偽善と不法が満ちている」などとあの慈愛に満ちたイエス様が、激しく非難した人々。その人たちが、自分たちの教えを引き継ぐ場所をヤブネに作ったというのです。「預言者を殺し」ともあります。

 私は何度も書きますが、ユダヤ人差別主義者ではないし、ユダヤ人の知人もおらず、ユダヤ人がどんな人たちかも知りません。ただ、聖書を真剣に読む者としてユダヤ人の真実が知りたいだけです。
 また現代社会に大きな影響力を持つイスラエル国やイスラエル人の真実が知りたいだけです。

 そしてユダヤ人とユダヤ教について、最大の謎はタルムードです。

 タルムードは、ユダヤ教の聖典であり、ユダヤ人たちは、旧約聖書とともにタルムードを大切に信じて従っているということです。

 タルムードは、口伝律法(ミシュナ)とその解釈の集積したものです。モーセが神からホレブ山で受け取った、律法、出エジプト記の後半、レビ記、申命記などの旧約聖書の文字に書かれた律法が、律法としてありますが、それ以外に、口伝えで伝承されてきた律法が多数あり、それの解釈がされ、それを集めた書物がタルムードです。

 ユダヤ教を、旧約聖書のみを信じる人々と考えるのは大きな間違いです。彼らにはタルムードがあるからです。ユダヤ教徒は旧約聖書とタルムードを信じる人々です。

 しかしタルムードは存在さえもキリスト教信者でさえも知らない人が多いのです。その内容は秘匿されています。タルムードには、異教徒にはタルムードは見せてはならないと書いてあるらしいです。

 タルムードには異常な噂があります。インターネットで「タルムード、危険」と検索して出てきたサイトを見てください。
 タルムードには、異民族・異教徒を「ゴイーム」(家畜)と蔑み、「異教徒の富を奪っても構わない」、「異教徒は騙しても構わない」など危険な思想が語られているというのです。にわかに信じがたい話です。
 しかし、タルムードの全訳がないので、それが真実かを確かめられません。

 タルムードの良い部分を書いた本が、何冊かは出版、翻訳されています。
 タルムードの悪い部分を書いた本も数冊訳されているようですが、現在では入手困難です。古本で高価だったり、絶版だったりするようです。また、それらの本は、どこまで真実か、判断が困難です。

 一体、一神教で、自分たちの聖典を他民族に見せないというのは、おかしいことだと私は考えます。一神教の真理ならば人類全体に関係することです。一神教の考えからすれば「あなたたちはあなたも関係する真の神を知らない。だから、教えてあげよう」と考えるのが普通だと思います。現にキリスト教の聖典・新旧約聖書とイスラム教の聖典コーランは日本のどこでも大して無理せず入手し読むことができます。

 多神教なら、この神は我々民族にだけ関係あるので、他の民族には見せないということもありえます。
(しかし、神道、仏教、ヒンズー教などの聖典を異教徒も読むことはできます。)

 ところがタルムードだけはそうでないのです。
 旧約聖書の方は誰でも読むことができますし、一神教の神と信者の生き方を確認できます。
しかしタルムードを異民族は読めないのです。
 なぜなのでしょうか。タルムードに何が語られているのでしょうか。
 やはり人に読ませられない危険な思想が語られているのでしょうか。

 新約聖書には、イエス様は口伝律法を批判する箇所があります。
マルコ伝福音書7章「あなたたちは自分たちの言い伝えを守るために、よくも神の言い伝えを捨てたものだ」
 イエス様は、パリサイ人が供え物を父母にあげれば、親を敬うことを無視していいという口伝律法を痛烈に批判しました。イエス様にとって口伝律法は、旧約聖書の律法を捻じ曲げ、無効にする否定すべきものだったのです。

 イエス様が否定したパリサイ人がまとめた、イエス様が否定した口伝律法の集まりであるタルムード。それが旧約聖書の神の掟を否定するような内容である可能性は、新約聖書を読む限り、ないとは言えません。
 もし、「異民族は動物だ。異民族の富を奪ってもいいし、異民族を騙してもいい。それが神の教えなのだ。それを異民族に伝えてはならない。黙ってこっそり実行するのだ。」という教えをイエス様が見たら「蛇よ。まむしの裔よ。お前たちは偽善者だ。強欲と不法に満ちている」というかもしれません。

 何度も書くように、私はユダヤ人を差別したいのではありません。ユダヤ人差別など大嫌いです。
 ただ真実を知りたいのです。
 タルムードの全訳があれば、それが明らかになります。
 なぜ、異民族にはタルムードを知らせないのでしょうか。
 人類を作った神の教えなのに、他に民族に伝えてはならない言葉があるのでしょうか。

 タルムードに関して、ユダヤ人はどう思っているのでしょうか。
 ユダヤ人には、宗教を気にしない、世俗的ユダヤ人、宗教というより伝統を大切にする伝統派ユダヤ人、宗教的な正統派ユダヤ人、厳密に宗教を考える超正統派ユダヤ人がいると聞きます。
 それらの各派はどう考えているのでしょうか?
 世俗派と思われる、カフカ、ディラン、ウッディアレンなどの作品に接しても、選民意識はあまり感じません。世俗派ユダヤ人はタルムードに重きをおかないのでしょうか。
超正統派は現在の政治によって作られたイスラエル国家は否定すると聞きます。超正統派はタルムードをどう感じているのでしょうか。
 わかりません。
 わからないことだらけです。


 最後に現代の謎を書きます。
 トランプ大統領が、イスラエルの首都をエルサレムにすることを強行に進めています。
その背後にはトランプ大統領の支持集団の福音派がいるというのです。福音派がイスラエルを支持しているから、トランプ大統領がイスラエルの首都をエルサレムにするというのです。

 しかし、なぜ福音派がイスラエルを、ユダヤ人を支持するのでしょうか?

 理解できません。福音派は新約聖書・旧約聖書に忠実な人々です。それがなぜイエスキリストを十字架につけた張本人のパリサイ派の子孫たち末裔たちを支持し応援するのでしょう。
 私は、ユダヤ人を排斥せよ、差別せよなどとは決していいません。キリスト教徒とユダヤ教徒が憎み合うべきだなど決して思いません。
 しかし、自分の救い主と信じる救い主であるイエス様を殺し、否定した考えを持つ人々の末裔を支持し、応援しているというのは不可解です。いつ、ユダヤ教徒がイエスキリストを十字架につけたことに謝罪、反省をしたというのでしょう。そうした事実があるなら、教えてほしいです。今でも、ユダヤ教においては、イエスは偽預言者であり、殺されるべき人間とされているはずです。
 そうでないなら、教えてほしいです。
 自分の救い主を「偽預言者で殺されるべき人」と考えている人々を、キリスト教徒が支持し応援するのは、全く理解できません。
 応援ではなく、イエスを理解できるように説得するとか、信じるように導くのならわかります。
 最重要点について正反対の意見があるのにそれを無視して支持、応援するのは不可解としか言えません。

 むしろ、イスラム教の方がコーランでイエスを偉大な預言者とし、その母マリアをほめています。
 ならば、キリスト教徒はむしろ、ユダヤ教徒ではなく、イスラム教徒と仲良くした方がまだ筋が通ると思います。

 以上、今回はユダヤ教とイスラエルについて疑問を上げました。
 答えは今のところありません。
 ただ、現代社会の中心にかかわる問題が、ユダヤ教とイスラエル国にはありそうに思います。






 

トランプ大統領の「エルサレムがイスラエルの首都」だという発言について

 投稿者:大森  投稿日:2017年12月19日(火)20時33分46秒
返信・引用 編集済
   今回は、急に最近のニュースを題材に書きます。
 キリスト教にある程度知識がある私が情報発信したほうがいいと思うからです。

 タイトルのようにトランプ大統領のエルサレムがイスラエル首都発言について書きます。



 はじめに

 日本人にとってエルサレム首都発言の影響

 結論からすると、トランプ大統領はエルサレムからパレスチナ人を排除する戦線布告をしており、日本の自衛隊がエルサレム周辺に派遣される可能性もあり、そうすると、イスラムのテロの標的に日本がなっていく可能性が高まったと言えます。



 1 ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の関係について

 前提として、多くの人が知らない可能性があるので、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の関係を書きます。

 実はユダヤ教、キリスト教、イスラム教の一神教は、元は同じ神なのです。
 旧約聖書の神なのです。そしエルサレムは、て旧約聖書の聖地なので、3宗教ともエルサレムを聖地とするのです。

 3つの一神教の概略を書きます。

 ユダヤ教は、旧約聖書に、口伝律法をまとめたタルムードを加えた宗教です。

 キリスト教は、旧約聖書の救いの予言を実現したイエスキリストを救い主の神として、旧約聖書に、新約聖書を加えた宗教。

 イスラム教は、旧約聖書を啓示した神がムハマドに最終啓示を行い、旧約聖書を完成したと言われるコーランを旧約聖書に加えた宗教なのです。

 3者とも旧約聖書の神を神としている点では共通しています。
 しかし、タルムードは、旧約の律法以外の言い伝え、言い換えると口伝律法を書いた書物です。キリストを救い主とは認めず、ムハマドの啓示も認めません。

 (またタルムードには、「異民族は家畜」「異民族を騙して富を奪っていい」などの危険な選民思想が入っているという噂があります。ただ、タルムードを異民族が学ぶことをタルムード自体が禁じているそうで、日本語訳のタルムードはないようです。(私は解説書を読んだことがありますが、そうした選民思想に触れていませんでした。)ですから、この噂の根拠を私はもっていません。しかしインターネットではタルムードの危険さを書いたサイトは散見します。安全で善良な教えならば、なぜタルムードを日本語訳で普通に読めるようにして、誤解を解いてほしいです。それとも異邦人には読ませられない内容なのでしょうか?)

 イスラム教では、コーランが旧約聖書の神の最後の啓示であり、完成とされています。また、コーランの中で、アブラハムやモーゼやその他の予言者たちも先駆者として評価されていますし、イエスも偉大な預言者の一人とされ、母マリアについての記述もあります。
 ですから、そう考えると、コーランは、旧約も新約も評価はしており、イスラムはキリスト教とも、ユダヤ教とも敵対はしないはずです。

 が、キリスト教からすればイエスキリストは、救い主であり神そのものであって、預言者の一人ではないのです。そしてイスラム教はイエスを救い主とは認めません。根本的意見対立があります。
 また、イスラム教は普遍主義で、コーランの掟を守れば、だれでもイスラム教になりえます。
 選民思想が強い、ユダヤ教とは違います。

 キリスト教についてはここでずっと書いてきました。

 ユダヤ教とイスラム教が、イエスを救世主として認めないため、キリスト教とは根本的な違いがあります。

 さて、3宗教とも、旧約聖書を聖典とするため、3宗教ともエルサレムが聖地になるのです。




 2 トランプ大統領のエルサレム首都発言、ホワイトハウスでのハヌカでの発言


 しかし、トランプ大統領がエルサレムのイスラエル首都宣言をしたということは、イスラエルだけのエルサレムだとアメリカが考えたということです。(ある国の首都が別の国の都市であることはありえないでしょう)
 つまりトランプ大統領が行ったエルサレムのイスラエル首都宣言は、イスラム教徒であるパレスチナ人をアメリカが退去させる方向で考えている宣言なのです。

 さらにホワイトハウスで行われた、ユダヤ教の式典「ハヌカ」の席で、トランプ大統領は「ここにいる人々は幸せだ。エルサレム。」と発言しました。
 これはパレスチナへの宣戦布告に等しい出来事です。

(ユダヤ教のお祭りであるハヌカはホワイトハウスでは恒例であるとニュースは言います。が、なぜハヌカがホワイトハウスで恒例に行われるのか、私にはわかりません。理解できません。)

 ハヌカとはユダヤ教の年中行事の一つで、マカバイ戦争(紀元前168年 ~ 紀元前141年)時のエルサレム神殿の奪回を祝う祭りです。
 これは旧約、新約の間の時代に起きたことで、アポクリファ(カトリックの第二聖典)のマカバイ記にその記述があります。
 アンティオコス4世エピファネスというヘレニズム文化を信じた王がエルサレム神殿を、ゼウスの神殿にしたり、異教の習慣を持ち込んだのです。ユダヤ教からすればエルサレムが異教徒に汚されたのです。マカバイ一族がそのエルサレムを異教徒の異民族から奪い返し、異教徒を追い出したことを記念し、喜ぶお祭りです。

 つまりハヌカは異民族をエルサレムから追っ払ったユダヤ人の記念の祭りなのです。

 エルサレムのイスラエル首都宣言の直後に、トランプ大統領は、異教徒をエルサレムから追い出したユダヤ人の祝いの席で、「ここのいる人たちは幸せだ。エルサレム」と言ったのです。
つまり、それは、「ハヌカのようなエルサレムから異教徒を追っ払った場面が実現できそれを見られるから、ここにいるユダヤ教の人々は幸せだ」とトランプ大統領は言ったも同然です。これは、トランプ大統領のイスラエル応援宣言であり、パレスチナ人に対する戦線布告です。

 トランプ大統領のこの発言が「はったり」でないなら、アメリカはパレスチナ人をエルサレムから追い出しにかかるでしょう。そうすれば大規模な戦闘が起きる可能性があります。

 戦争法で米軍の言いなりで自衛隊を派遣できる日本がエルサレム周辺や対イスラム戦争に駆り出される可能性は十分あります。聖地を守ろうとするイスラムからすれば、それに戦いを挑む米軍は宗教的な敵であり、日本も加担すれば日本も宗教的な敵と見なされるでしょう。
するとイスラムからのテロの標的に日本がなる可能性が高いと言わざるを得ません。

 しかし、キリスト教徒であるはずのトランプ大統領がなぜそんなにもイスラエルの味方をするのでしょう。
 キリスト教徒ならば、イエスを救い主と認めないユダヤ教徒とは距離を置くはずです。

 しかし、トランプ大統領は親イスラエルです。
 彼の娘婿はユダヤ人であり、娘のイバンカさんは、ユダヤ教に改宗したのです。
 トランプ大統領がまじめなキリスト者であれば、娘がユダヤ教になることを認めるはずはありません。キリスト教の教義では、旧約の預言も律法もイエスにより完成されたのです。なぜ完全なものをもっているのに、完全なものを捨てて、不完全なものに取り換えることがあるでしょう。
 ですからまじめにキリストを信じているキリスト者はユダヤ教徒にならないし、可愛い娘がそうなることを望むはずもありません。

 トランプ大統領が信じているのは、おそらく、キリストではありません。彼は金の力や権力を信じているのではないかと思います。トランプ大統領は、アメリカの金持ちで経済を支配しているユダヤ人の方を向いて、こうしたエルサレム発言をしたように思います。
 またイスラエルを作ったと言われ、また世界経済・世界金融を支配していると言われるロスチャイルド一族の方を向いてこのエルサレム宣言をしたように感じられます。
 

情報統制について 1

 投稿者:大森  投稿日:2017年11月 5日(日)18時20分40秒
返信・引用 編集済
   はじめに

 今回は明治以来の宗教研究についても言及しながら現代の問題も考えていきます。

 今回は明治から昭和の言論統制と現代の言論統制を比べて考えていきます。

 最近は現代日本で言論統制が行われていると感じますし、言論統制は怖いものだと思っています。

 言論統制の一番怖い所は、政府に都合の悪い思想や情報を知らないことで、問題が思考の視野から消えてしまうことだと思います。問題が現実に目の前にあっても思考の視野から消えてしまえば、ないと同じになります。
 無批判、無反省、現実容認、政府容認になります。そこには個人の自由も個人の思考もなく、思考し決断するという個人の尊厳を失った、麻痺し偏った奴隷的人間がいることになります。

 このことを良く表現しているのがジョージ・オーウェルの「1984年」です。
 1984年の世界では、政府の都合の悪い情報はすべて抹殺され処理されてなくなります。人々は過去の情報も反政府思想も抹殺され接することもなくなり、無批判な思考停止に陥っています。そこには人間の尊厳である思考の自由を失った精神が麻痺した奴隷的人間たちがいます。
 1984年ではそうした情報統制を極限まで押し進め、政府は言葉自体を抹殺し、表現や思考を制限していきます。オーウェルは、最後に小説とは別の英語の「ニュー・スピーク」についての論文を載せます。反政府的な語彙を制限し言葉を削減した反政府の思考をさせないための異常な英語です。例えば、自由、人権、個人、民主主義などという言葉が抹殺され使用できなくなれば、「人間には自由がある。個人の自由を守るために民主主義を守ろう」と主張しても、聞いている人間は「????」としか思いません。
 「ジユウって何?ミンシュシュギって何?」となって思考ができません。オーウェルによれば、そうした言論抹殺が進めば、「人権宣言を読んでも、『これクライムシンキング(犯罪思想)だな』という感想しか浮かばなくなる」というのです。

 現代で原発事故は怖いと思っている人間は多いでしょう。しかし、その情報はあまりにも少ないと思います。今までの情報から考えても、以下の疑問が浮かびます。
「冷却水はどうなった?海に放出されているのではないか?」
「近海でとれる魚の放射能の濃度は何ベクレルか?」
「仮設住宅に住んでいる人たちは、どうなった?なぜ、普通の住宅に住めない?生活はどうなった?」
「福島での放射能による病気はどうなった?子供の甲状腺癌の発生数やその政府の対策はきちんとしているのか?(甲状腺癌が増えていても、山本議員はその件を政府に質問し、答えは、1件も放射能による甲状腺癌とは認定されず、保証もないと政府は言っていました)」。

 こうした情報がなければ、福島原発事故の現在については思考の視野から消えてしまい、思考が停止してしまいます。現状ですでにこうした情報統制により、考えるべき問題が思考の視野から消えている状態が出現しているように思います。

 また、種子法の廃止による稲の種の多国籍企業支配についても情報がなければ思考は停止します。
食物自給率も、遺伝子組換え食品の恐ろしさも、多国籍企業の食物支配も、情報がなければ存在しないのです。

 さて、言論統制について書いていきます。

1 言論統制の定義と分類

 私は言論統制についてこう定義します。

「政府が都合の悪い情報や思想を排除し国民に伝えないこと。また、政府に都合のいい情報や思想を国民に刷り込んで信じさせること」

 またこれを行う主体者を二つに分けて、民間人によるものと政府によるものに分類します。

 またその方法を暴力的なものと言論的なものに分けます。

 こうすると8種類の言論統制に分類できますが、私は次の4つの言論統制について論じながら、言論的なものと暴力的なものをその都度上げ検討していきます。

①  民間人の行う、政府に都合の悪い情報・思想の排除

②  政府が行う、政府に都合の悪い情報・思想の排除

③  民間人の行う、政府に都合のいい情報の刷り込み(洗脳)

④  政府が行う、政府に都合のいい情報の刷り込み(洗脳)

 これら4つを検討しながら、それぞれ暴力的なものと言論的なものについて考えます。



2 4つの情報統制についての検討・①民間人の行う、政府に都合の悪い情報・思想の排除

 これの代表的な例を挙げるなら、まず明治初年に行われた、狂信的神道家による廃仏毀釈が上げられるでしょう。
 廃仏毀釈は民間人の神道家が行ったものでした。
 日本全国で狂信的な神道家が仏教の寺院や仏像、仏具を破壊し、仏教を排除していきました。
 これについてはこの掲示板の以前、取り上げたので詳しくはそれを見てください。

http://8606.teacup.com/meizireligion/bbs/262


 これは暴力的なものでした。明らかに思想で対決したのではなく、暴力をもって仏教を排除にかかったのです。
 これは、民間人が行ったものでしたが、政府が無関係かというとそうではありません。

 政府はこうした一方的な暴力的宗教排除を見逃していました。肯定や推進をしたわけではないですが、これを止めたり暴力者を逮捕したりしませんでした。
 いってみれば暴力的神道家を応援していたのです。それは政府にとって都合のいい、天皇中心の神道にとって邪魔な仏教の力をそぎ落とすためでした。これをもって仏教は明治政府下では天皇神道には逆らえないのだ、協力しなければならないのだということを痛感し服従したのです。

 もう一つ、民間人による思想排除で明治時代におきたもので思い浮かぶのは、明治14年の加藤弘之の国体新論の自己否定、絶版宣言事件です。これもこの掲示板で扱いましたので、詳しくはそれをご覧ください。
http://8606.teacup.com/meizireligion/bbs/434

 明治8年に出版した「国体新論」において、加藤弘之は、共和制や立憲君主制を主張し、君主専制や君主専治を「野鄙陋劣の風俗」として否定しました。しかし、「海江田信義という元老院議官が、上記の加藤の著書について、「『国体新論』排斥の建白書」という激しい建白書を太政大臣、左右大臣に提出した。岩倉具視などの上層部がこれを重く受け止めて、本人に説を否定させて本人に改悟の姿を衆目にさらすことがいいと決めて、海江田が、殺さんばかりの勢いで加藤にひざ詰め談判し、絶版させたという経過だったそうです。」

 海江田は、元老院議員であり、その後、岩倉具視など上層部が重く受け止めたということから、単純に民間人が行ったとは言えないかもしれません。しかし、政府が進んで警察を使い逮捕したのでもなく、法律で罰したのでもないので、一応民間人が行った分類に入れます。
 しかし上記の廃仏毀釈もそうですが、民間人が行ったといっても純粋に民間人が行ったことではなく、政府が容認、黙認、意見などで民間人と関わっていた場合も多いことと思います。

 この加藤弘之の場合も、こうした圧力で意見を変えた加藤も信念がないと思います。
 が、しかし、同時に、この事件で、反天皇制の言論は封鎖されるという強い印象を言論界に抱かせたと言えます。こうしたことを通じて、明治の言論界では反政府、反天皇制の言論、思想はインテリが発表しなくなり、民衆はそうした思想に触れる機会がなくなり、思想的視野から反政府、反天皇制が消えていったのです。

 また明治24年の内村鑑三の不敬事件も民間人の行った情報統制事件の代表例と言えるでしょう。
これもこの掲示板で考察しました。
http://8606.teacup.com/meizireligion/bbs/483

 この件はおそらく政府が関与することが少なかった民間人による言論統制事件でしょう。
 これを考えると、加藤事件の明治14年の10年後には、ここまで民間人が自主的に政府の考えに従い、自主的に反政府的思想を排除する気持ちになっていたのかと思います。政府の誘導がうまくいけば、日本国民は積極的に政府の思想刷り込みに順応し、反政府思想の存在を否定したがるまでになるということが分かります。

 私は、民間人による言論排除というと現代アメリカの例も思い浮かびます。

 代表的な例は、ケネディ大統領、キング牧師、ジョンレノンの暗殺、またマイケルジャクソンの死です。
 ジョンレノンの暗殺はファンによるものですが、その背後に権力者の影響がないのでしょうか。
 キング牧師の言動が公民権運動や人権や人種差別反対の大きな影響を持っていたのは間違いないでしょう。その公民権主張、人権の希求、人種差別反対の言論を、暴力が否定して消し去ったのです。この殺人は個人によるものとされていますが、この背後に、キング牧師の言論に不都合や反感をもっていた人間の存在もあるのではないかと思ってしまいます。また、こうした暴力による言論封殺が、他にキング牧師の後に続いて、公民権主張、人種差別反対の声を上げようとする人々を躊躇させることは、予想できるでしょう。「ああした言論を行えば殺される」と考えさせるのです。
 ケネディ大統領は、キング牧師を助け、人種差別に対して反対しました。当時盛んになった公民権運動に対して積極的でした。また連邦準備銀行の通貨発行権を政府に戻そうとする政策も努力しました。
 しかし暗殺され、彼の言葉も行動も葬り去られたのです。
 彼の死に対してスーパーリッチや権力者たちがどのようにかかわっていたのか不明です。しかし、利害関係から暗殺者を送り込むことも考えられるでしょう。
 愛と平和を主張したジョンレノンは殺され、金銭支配、自然破壊、マスコミの堕落など現代社会の様々な問題をヒストリーというCDで歌ったマイケルジャクソンも不審な死に方をしました。
二人の死の実態はわかりません。
 しかし権力者に都合の悪い真実を訴えた彼らの死によって、社会的な影響力を持ち、理想主義的な側面を持つ人々の言論が、暴力によって排除されたとはいえるでしょう。

 また、タックスヘイブン(租税回避地)をめぐる「パナマ文書」をもとに政府の疑惑を告発した女性ジャーナリスト、ダフネ・カルアナガリチア氏も今年10月に、車が爆破され死亡しました。権力者の脱税という権力者に都合の悪い真実を伝えたジャーナリストは車の爆破という第三者による陰謀で死去したのです。

 現代日本ではどうでしょう?

 表面上、現れませんが、そうした噂もあるようです。

 NHKの長谷川浩というジャーナリストが911テロについて不審な点を放送しようとした直前に不審な転落死をしたという話があります。
 長谷川氏は911テロ後にアフガン戦争にも積極的に発言していました。
 警察は「事件性はない」「遺書はない」と説明しているそうです。

 鈴木啓一氏という朝日新聞の記者が、りそな銀行の自民党への融資について記事にしようとした直前に不審な自殺を遂げたという話もあります。

 あるいは、自民党の親米派の清和会の中曽根氏、森氏、小泉氏などは引退後も活躍し安定した生活を送っているのに比べて、アメリカと距離を持とうとする経世会の田中角栄氏、竹下登氏、橋本龍太郎氏、小渕恵三氏たちがスキャンダルで非難されたり早世したりしているのはなぜなのでしょうか。

 こうしたことは表面に論じられることは少ないし、また、真相はわかりません。私のような政治素人、ジャーナリズム素人には全く真相はわからず、不明です。

 しかし、都合の悪い言論を除去しようとする力が日本ではないということは、ありえないのではないでしょうか。我々のよく知らないところで、恐ろしい情報統制が行われていて、そのことが我々の耳に入らないということがないのでしょうか?

 民間人の言論による、他の言論の否定や批判は、赦され、あって然るべきものと思います。真実を追求するためには、論戦は必要であり、健康的で、より高い真実を求める理想的な側面があります。それが感情的で一方的であれば問題はあるにしても、反対意見に関しても言論の自由は認められるべきものです。

 しかし、上記のような暴力による言論封殺、言論弾圧は、恐ろしいことであると思います。こうした暴力により、言論は否定され、理想主義的な言葉も思想も、多くの人の思考の視野から消えてしまうとすれば、恐ろしいことです。

 しかも、こうした暴力の真の黒幕がいるのか、いないのか、もしいたとしても分からないことも、恐ろしいです。大金持ちや権力者にとって都合の悪い言葉を話す人間を、排除するように、大金持ちや権力者は依頼する、それが実行される、真の犯人は分からない、そうしたことがもしかしてあるのかもしれません。権力者であれば警察の追及も免れる可能性はどうなのでしょうか?
 ここでいう権力者の場合は、「権力者=政府」ではありません。政府の権力者が公然と上記のような暴力を指示することはありません。表面に出てこない権力者が秘密に指示を出す場合もあるのかもしれないということです。

 また、そうした事実から、マスコミ、思想家、宗教家、政治家、文筆家や表現者といった人々の言論の自由に内面的なストップがかかり、政府に、あるいは権力者に都合の悪い情報は流さないという状況が作られ、一般市民は不都合な情報を聞くことができず、思考の視野から不都合な情報は消えてしまうことになってしまう可能性があります。

 一つだけ最後に現在に関することを書きます。

 前回も書きましたが、自民党の改憲の具体案として、緊急事態条項の創設を平成29年6月に自民党は言い出しています。
 しかし選挙中も、選挙後も、政治家、マスコミから私は一切の改憲について緊急事態条項の情報を聞きません。
 ナチの全権委任法と似ていると指摘され、前回も書いたように、法律家(小林節氏、樋口陽一氏)、弁護士、政治家(山本太郎氏)などが口をそろええて緊急事態条項は民主主義国家を独裁国家にする魔法の杖だと言っているのです。衆議院選挙が無くなり、参議院議員選挙も特例になります。
 こんな重大なことをなぜ、どのマスコミも政治家も、改憲を論じる際に言わないのでしょう?
 9条に手を触れなくても、緊急事態条項があれば何でもできてしまうのです。
 首相が法律と同じ政令を作れ、予算も動かせるのですから。

 このことがマスコミや政治家の話にでないのは、私は情報統制に思えます。

 今回は①を終えて、次回②について書きます。




 

選挙の本当の争点は改憲で、緊急事態条項を入れるかどうかが中心です

 投稿者:大森  投稿日:2017年10月 8日(日)07時50分51秒
返信・引用 編集済
  今回は最近の時事問題を書きます。

今、私たちが民主主義か、独裁制を選ぶか、の分岐点にいると思うので書かずにいられません。


自民党や小池新党が口にしないが、今回の選挙の争点は憲法に決まっています。

首相は選挙前から、今後、改憲をする日程を、提案しているし、その通りすると言っていました。

だから、今回は自民党改憲草案の改憲派で話を進めるか、そうではないかを決める選挙です。

自民党改憲草案での最大の問題は緊急事態条項を入れるかどうかです。

これは自民党も公言しています。

小林節さん・樋口陽一さんの「憲法改正の真実」にも「緊急事態条項が改憲の本丸だ」とあります。

9条についてもありますが、9条はもうすでに戦争法があるのです。安保法制があるのです。

変えなくても現実的には自民党のやれるようにできます。

一方、緊急事態条項は恐ろしい、本当に恐ろしい条項です。

1 緊急事態を首相が自分で宣言できる。

2 緊急事態になれば、首相は法律と同じ政令を作れる。

3 緊急事態であれば首相は予算を決められる。

4 緊急事態には国民の人権を制限できる。

5 緊急事態であれば、選挙は行われない。

6 緊急事態は100日であるが、いくらでも延長が可能。

私は弁護士さん二人の改憲講演会を聞き、二人が口をそろえて「予算・法律を一人で動かせるなら、独裁と同じ。しかも、選挙が行われないなら、もはや民主主義ではない。いくらでも延長出来て、それが当たり前になる。いつでも、そうした独裁状態に持ち込めるなら、権力が暴走する可能性は大きい。」といった内容を話していました。

小林節さん・樋口陽一さんの「憲法改正の真実」でも「自民党が緊急事態条項の新設に躍起になっているのは『俺たちの好きにさせろ』と言っているのに等しい」
「一度手に入れた万能の権力をすぐに手放す気になるかどうか」と同様の危惧をしています。

つまり緊急事態条項は、民主主義を独裁制に変える魔法の杖なのです。

緊急事態条項が入れは日本は民主主義でなくなるのです。

あの維新の会の橋本氏も「自民党改憲草案は悪夢だ」と言ったとのこと。

立憲民主党の『枝野氏はインタビューで「『緊急事態条項』はそれこそ論外。政府が『緊急事態』と言ったら、憲法の縛りなく何でもできるようにすると」「まさにナチスがこれをやったんです」と、正確な歴史認識に基づく危機感を口にした。』
(インターネット情報)

麻生副総裁が「ナチスの手法をまねてはどうかね」と言ったのは有名な話しです。


弁護士さんは、「日本の法律で緊急事態対応の準備は十分できている。東日本震災の場合でも災害時に権力を中心に手中してはダメ、現場に分散したほうがいいと理解されている」と話しています。
北朝鮮のミサイルに迎撃もできないことは、専門家が言っています。
それを緊急事態条項を入れただだけで、迎撃できるようになるなんて、ありえません。

今回の選挙は民主主義か独裁かを選ぶ選挙だと思っています。

参考に山本太郎参議院議員・街頭記者会見10月1日の動画1:20ころからご覧ください。

https://www.youtube.com/watch?v=JDcddCA_wEc&t=4856s
 

旧約聖書時代のイスラエル人の罪と現代(イエス様の十字架への道補遺)

 投稿者:大森  投稿日:2017年 9月17日(日)08時11分16秒
返信・引用 編集済
  はじめに

今回はマルコ伝福音書の12章1節12節の葡萄園の農夫が所有者に対して罪を犯した個所に関連して、旧約聖書について書きます。また、その罪と現代人について考えます。

この葡萄園の労働者たちは長年にわたって所有者に罪を犯し、その使いを殺したり迫害したりしました。
労働者はイスラエル人と特にその祭司や支配階層、所有者は神、使いは預言者たちでしょう。
イエス様は、その長年の罪を糾弾し、それによってエルサレムが滅ぶことを預言します。

私は旧約聖書を引用しながら、長年、イスラエル人が犯してきた罪の一つについて考えます。



1 旧約聖書イスラエル人の児童焼殺儀式

私は、イスラエル人の罪を考えるにあたり、まず、エレミヤ書7章31章を上げます。

「またベンヒンノムの谷にあるトペテの高い所を築いて、むすこ娘を火に焼いた。わたしはそれを命じたこともなく、またそのようなことを考えることもなかった。」

関連してエゼキエル書16章20節21節。
「あなたがわたし(神)に産んだむすこ、娘たちをとって、その像に供え、彼らに食わせた。このようなあなたの姦淫は小さなことであろうか。あなたはわたしの子供を殺し、火の中を通らせて彼らにささげた。」

また関連個所では歴代志下33章6節
「彼(マナセ王)は、ベンヒンノムの谷でその子供を焼いて供え物として、占いをし、魔法を使い、まじないを行い、口寄せと、占い師を任用するなど、主の前に多くの罪を行って、その怒りを引き起こした」

(以上は口語訳です。新共同訳では歴代志この個所は「子供たちを火の中を通らせ」とあります。「火の中を通した」という表現が「焼き殺した」の婉曲表現なのか、儀式か占いの意味で火の中を通すだけで殺さなかったのかは簡単には判断できません。しかし、同じベンヒムノムの出来事なので、「火の中を通した」は焼き殺したことの婉曲表現なのではないかと私は思います。歴代志や列王記は王に関する史実を書いていて、筆者たちは、王への最低限の敬意はもっていて、おぞましい表現を王にしなかったということなのではないかと推測します。)


エレミヤ書やエゼキエル書では新共同訳でもはっきりと「火で焼いてささげた」とあります。

また列王記下21章、23章にも口語訳、新共同訳で、「子供を火で焼く」、「子供を火の中に通す」という表現があります。

「王(ヨシヤ)はまた、だれもそのむすこ娘を火に焼いてモレクにささげ物とすることのないように、ベンヒンノムの谷にあるトペテを汚した」列王記下23章10節、口語訳。
これは善なる王ヨシヤが、子供を火で焼き悪神モレクにささげる儀式を禁止した記述です。
ベンヒンノムの谷で崇拝された悪神はモレクと言ったのです。


旧約聖書時代のイスラエル人は、偶像や悪神にささげるため、子供たちを火で焼きささげていたというのです。
旧約聖書時代にイスラエル人は、たくさんの罪を犯していたと思いますが、我々現代人には衝撃的で、おぞましい罪が示されます。
神様とその使いである預言者、そしてイエス様は、「子供を焼き殺す罪を止めよ」とイスラエル指導者に訴えてきて、その意見は無視されてきたのです。
そして、これを見れば、イエス様は糾弾したイスラエル人の罪がいかに深いものであったかを感じることができます。

私はこれに関連して律法であるレビ記を思い出します。

レビ記18章21節
「あなたの子どもをモレクに捧げてはならない。」(口語訳)
「あなたの子を一人たりとも火の中を通らせてモレク神にささげ、あなたの神の名を汚してはならない」
(新共同訳)

ここで律法ははっきりと子どもを火で焼く儀式を禁止しています。



2 児童焼殺儀式と近親姦淫の罪

このレビ記18章を読むと奇妙なことに気が付きます。
それは18章が、近親姦淫を禁止した言葉に満ちているということです。
「あなたがたはだれもその肉親の者に近づいてこれを犯してはならない」レビ記18章6節から始まり、
「あなたなの母を犯してはならない」
「あなたの姉妹を犯してはならない」
「あなたの娘の娘、息子の娘を犯してはならない」
「あなたの父の姉妹を犯してはならない」など三等身までの肉親や息子の嫁、父の妻(多妻だから血はつながっていない)などの家族、肉親との性交、姦淫を禁止しています。


そして、そうした姦淫禁止の掟が続き、隣の妻との性交を禁止した文の後に、突然、「あなたの子を一人たりとも火の中を通らせてモレク神にささげ、あなたの神の名を汚してはならない」が続くのです。
なぜ、近親姦淫の禁止の中でいきなり、子どもを焼いてもモレクにささげることを禁止した掟が出てくるのでしょう。

私は、この18章を読みながら、一つの推測を立てました。
それは、実は、近親姦淫と子どもを焼くという、おぞましい二つのことは密接な関係があるのではないかということです。
近親姦淫は言うまでもなく性行為であり、その結果が妊娠に至ることは多いでしょう。
当時は避妊の技術がそれほど高くない、というより避妊の医学的技術はほとんどなかったと思われます。
避妊の技術がなく、妊娠したら、出産するしかないでしょう。
罪の証明である子どもが生まれるのです。
その子どもは、常に罪を犯した男女に、お前たちは罪を犯したとその存在で語り続けます。周囲から見ても、その子どもを見て、犯した罪を認識せざるを得ないでしょう。

そういう状況で、子どもを火で焼くと言うおぞましい罪があったのかもしれません。

また、列王記の3章を読むと、モアブ王が自分の願望のために、子どもを焼き殺す儀式をしたことが書いてあります。そうであれば、もしかしたら、自分の欲望をかなえるとい目的で、近親姦を行い、儀式で殺すために生贄の子どもを産ませたのかもしれません。

本当に気味の悪い、嫌な話です。おぞましい、穢れきった話です。

しかし、神が滅ぼせといった、カナンの人々は、そうしたおぞましい罪を平然と行っていた人々であり、だから、神は、滅ぼすのだと聖書は語ります。

「わたしはお前たちの前から追い払うもろもろの民族はこれらのことによって身を汚したからである。」
「わたしはその地にその悪の罰を負わせ、その地は住民を吐き出したのである」
レビ記18章24節25節。

ヨシュアに全滅するように神が言われた民は近親姦と児童を焼き殺すことを平然と行っていた民でした。

18章の冒頭を読むと、エジプトやカナンのならわしに従ってはならないと説き、周辺民族で、近親姦が行われ、子どもを焼く儀式が行われていたことを示唆し、それを行わないようにと勧告しています。

また、他の個所でも、周辺民族の児童焼殺儀式の記述があります。

列王記下3章27節
「そこで彼(モアブ王)は自分に代わって王になるはずの長男を連れて来て、城壁の上で焼き尽くすいけにえとしてささげた。」
列王記下17章31節
「セファルワイム人は子供を火に投じてセファルワイムの神々アドラメレクとアナメレクにささげた」

列王記下3章を読むと、モアブ王はエドム王に勝つために、後継ぎを焼き殺しています。
これを読むと悪神に子どもを生贄として捧げ殺す儀式は、自分の願望を達成するためだったのです。
この子供はおそらく近親姦淫のこどもではないでしょう。
これと近親姦淫との関係ははっきり断定できません。が、近親姦淫でできた子供を自分の願望をかなえるために殺すこともあったのではないかと思います。
また自分の願望達成のため、わざわざ近親姦淫することもあったのでしょうか。(異常な罪の行為と思います)

しかし、それは外部の民だけではありません。
イスラエル自身もその悪神と堕落した他民族の影響で、そうした悪しき儀式を行っていたのです。

エレミヤ書やエゼキエル書はそれをはっきり語っています。
またヨシヤ王の改革もイスラエル人がそれをしていたことを示しています。



3 児童焼殺儀式と悪魔崇拝


そんな気味の悪い、おぞましい儀式をしたのは、もしかしたら、そういうことで願いがかなえられた例があったのかもしれません。悪神モレクの力を人々がまざまざと感じたためかもしれません。


このおぞましい罪の背後には悪魔崇拝があったのではないかと推測も荒唐無稽なものではないと思います。
この子供を捧げられる悪神であるモレクが悪魔だったという推測もあり得るとおもいます。

イスラエルがソロモン王の後に、レハベアムとヤロブアムにより分裂した際のヤロブアムの行動に次の記述があります。

「ヤロブアムは、聖なる高台、山羊の魔神、自ら造った子牛に仕える祭司を自分のために立てた」
歴代誌下11章15節(新共同訳)

山羊の魔神とは、悪魔のことではないでしょうか。

King James Bible(欽定訳聖書)では、山羊の魔神の個所に、Devilsの言葉が使われています。

悪魔がアダムとエバのいた世界の初源から存在していたのなら、この時代にも、モレクとして悪しき人々が崇拝していた可能性は否定できないでしょう。



4 現代人の罪と児童焼殺儀式

これははるか過去の話で、現代において関係のない話でしょうか?
私はそうは思いません。

私は近親姦淫の禁止を提示する18章に、子どもの焼き殺しを禁止した掟があることについて、近親姦淫で妊娠し出産した子供を抹殺するためではないかという推測を書きました。

姦淫でできた子供を殺すことは、ベンヒンノムの谷で焼き殺すことだけが、禁止すべきことなのではありません。
近代的な病院の中で、科学的技術に基づいて、多くの人に知られない形で、姦淫による子供を殺すことも、ベンヒンノムの谷で焼き殺すことと同様におぞましい罪ではないでしょうか?
出産された子供の焼殺が罪で、出産前に母体の中にいる時には殺人でないと言えるでしょうか?
多くの人に知られないから胎児を殺すことが、子どもをモレクにささげるような罪でないといえるでしょうか。
私は今回書いてみて、堕胎は、ベンヒンノムの谷で子供を焼き殺すようなおぞましい罪なのだと思いました。
それは現代日本でも行われているでしょう。
堕胎は、自分の快楽の罪と自己保身のために、人の命を殺してしまう罪です。

堕胎をする人やさせる人は、それを悪魔崇拝とは思わないでしょうし、そうした人々のほとんどはきっと悪魔崇拝者ではないでしょう。しかし、自分の快楽と保身のために罪もない子供を殺すことは、悪魔的な、悪魔の喜ぶ行為と言っていいではないかと思いました。

さらに言うなら、娼婦との性交や画像・動画で興奮する自慰もそうした子供を殺す罪の一種と言えるかもしれません。
カトリックのフランシスコ会訳聖書のレビ記では、18章の注釈で、「子ども(直訳では種)」とあり、種は精液と解釈できる可能性があります。
娼婦との性交や画像動画での自慰は、偶像を崇拝して種を殺す罪だと言っていいでしょう。

同書の18章の注釈の中には以下の文があります。
「18章は、宗教的、種族的、血族的観点から性生活が神聖であることを述べたものである。性は神から与えられた力であり、人はこの力を用い、神に協力して新生命を造る。新生命は神から来るものであり、神にささげられるべきものであるから、性はきわめて神聖である。」

私はこの意見は正しく、ここに今まで考察した禁止の根本精神があると思います。

性は神聖で厳粛です。それは神の創造行為という崇高な行為の一部なのです。我々は神の創造行為の一翼をになうのです。
そこには快感がありますが、聖書的なあるべき姿を言えば、快感だけを求めてはいけないし、神の神聖な創造行為を偶像にささげてはならないのです。

悪魔の側からすれば、悪魔が求めるのは、悪魔が神さまより高い存在であることを示すことです。
神の創造行為を醜悪に変形し、悪魔が神様より高い存在であるかのように示したいのです。
神の神聖さを穢し、神をあざ笑いたいのです。

人間という最高の被造物が行う崇高な生殖のための性行為という神聖な行為が、神でない偶像への崇拝行為になれば、悪魔は、神を愚弄できて、高慢な快感があるのでしょう。
性の罪の根本にはそうした問題があり、人間が神につくか、悪魔につくかという根本問題が係っていると思います。



5 現代アメリカの児童殺人儀式に関する動画

私がこの文章を書くきっかけには、ある動画を見たことがあります。

https://www.youtube.com/watch?v=2quEVXYOrDc  (特に17分付近)

テッド・ガンダーソンという元FBIロス支部長の悪魔崇拝と児童殺人についての動画です。
この人物がどういう人で、本当に、FBIだったのか?一部のアメリカ人で悪魔崇拝者がいるのか?、どうか、私には確かめられないことです。
しかし、私は、この動画を見て驚き、旧約時代の児童殺人儀式について知らべようという気になりました。

この動画の信憑性はわかりません。
しかし、私は、アメリカ政府が、例えば、大量破壊兵器がないにもかかわらず、イラクを攻撃し、一部の金持ちが、イラクを支配し、石油を手に入れたことが事実であることは知っています。その際に、たくさんの子どもを含むたくさんの人間の命が失われたことも知っています。
さかのぼれば、国際法上許されない、一般市民の空襲や原爆投下を、日本に対してアメリカがして、子どもを含むたくさんんお人間が焼け死んだことも知っています。
リビアでも、シリアでも空爆が行われて、たくさんの人が焼け死んでいます。
アメリカ中心の農業多国籍農業企業モンサントなどの企業が遺伝子組換え作物で世界の農を支配し、インドで綿農家が20万人以上自殺に追い込まれたことも聞いています。

この事実だけでも、現代でも、支配や金や資源のために、悪魔的とも言える殺人が行われたことは分かります。
お金や支配や資源という偶像のための、おぞましい悪魔的な殺人儀式は、現代でもあると私は思います。




6 児童殺人とイエス様

神様は児童殺人の儀式を禁止しています。
旧約聖書にはただひとつの例外を除いて、神ご自身が児童殺人儀式を肯定したことはありません。
アブラハムの例も士師記のエフタの例も神様は肯定したわけではありません。
しかし、ただ一例、神が子どもの殺人を容認した例があります。
それはイエス様の十字架です。
神様は、神ご自身の子どもを十字架で死に人々の生贄になることを容認されました。
他人ではなく神ご自身が自分の子が死ぬ深い痛みを負ったのです。
それは人類の救いの係る全く例外的な特別な例です。
快楽や欲望のためではない、自己犠牲的な愛の極致としての生贄です。
そのことを考えると、深淵を感じます。


おわりに

今回はまた話がとんでしまいました。
しかし、現代にも関係する重要な問題であると思います。
私は現代の悪の問題をずっと最近考えています。
民主主義も人権も奪われた1984年のような世界が来るのではないか。権力者は、それを準備しているのではないか。日本の民衆は、その恐ろしさもわからず、大手マスコミの情報を鵜呑みにして、盲目のようについて行っているのではないか?
そういう気持ちの中で聖書を読んでいます。
本当に戦前の日本の宗教問題についてまた書こうと思っています。





 

イエス様の磔刑への道2 イエス様と群衆

 投稿者:大森  投稿日:2017年 8月19日(土)08時56分20秒
返信・引用 編集済
   今回もイエス様の十字架への道を考えます。

 本来、日本の明治以来の宗教を考察する掲示板なので、その話に戻っていくつもりですが、清水さんに与えられた課題を考えているうちに、聖書を読み返し、勉強になっていると思っています。
 以前は、私は、自分と永遠の真実を語る聖書という観点で読んでいました。
 今回は当時の状況を考えながら、それを現代に当てはめるという作業をしてみると、大変おもしろく、しばらく、これも続けていきたいと思っています。(明治以来の日本の話も平行して考えます)

 イエス様を現実に十字架に追いやって殺したのは祭司たちでした。
 彼らは、神の権威を持ちながら、神のためよりも自らの強欲さにより行動し、民衆を搾取していました。
 しかも、それは隠蔽されたものでした。前回の神殿での商人排除を読むと祭司たちは表面に出ていません。イエス様も祭司たちを名指して批判していません。ただイエス様は、祭司たちには批判の刃が届くように語っています。だから祭司たちはイエス様を殺そうと図ったのですが、イエス様は、あからさまに祭司たちを批判したのではありません。
 おそらく群衆や弟子たちは、その批判の意味をわからなかったのではないでしょうか。
 マルコ伝11章から13章までのエルサレムでの場面を見ると、祭司長、律法学者、長老とイエス様の息詰まる議論がなされますが、弟子たちや群衆の意見は出てきません。

 今回は、イエス様と群衆の関係についてマルコ伝福音書から考えてみます。

 マルコ伝の11章には有名なエルサレム入城の記事があります。
 そこには、群衆が自分の上着をイエス様の通り道に敷き、葉のついた枝を野原から切って敷き、叫んだとあります。群衆はイエス様を歓迎し熱狂してイエス様を迎えたのです。

 その叫びの言葉について、文語訳聖書にはこうあります。

『「ホサナ、讃むべきかな主の名によりて来たる者」讃むべきかな、今し来たる我らの父ダビデの國。「いと高き處にてホサナ」』

 新共同訳ではこうです。

「ホサナ、主の名によりて来られる方に祝福があるように。我らの父ダビデの来たるべき国に、祝福があるように。いと高き所にホサナ。」

 私の持っている新共同訳には、この個所は詩編118編25、26節の引用であると書いてあります。

 文語訳の詩編118編25,26.
「エホバよ。ねがはくはわれらを今すくひたまへ  エホバよねがはくは我らをいま榮えしめたまへ エホバの名によりて來るものは福なり われらエホバの家よりなんぢを祝せり」

 詩編118編の新共同訳。
「どうか主よ、私たちに救いを。どうか主よ、私たちに栄えを。祝福あれ主の御名によりて来る人に。私たちの主の家からあなたたちを祝福する。」

 マルコのこの個所と詩編118編25.26は正確に一致しません。大雑把に一致はしています。
(ホサナは、「救い給へ」という意味です。)

 しかし「讃むべきかな、今し来たる我らの父ダビデの國。(我らの父ダビデの来たるべき国に、祝福があるように。)」という言葉は詩編118編にはこの言葉は完全にありません。

 私が注目するのはこの言葉です。
 これは詩編118の言葉ではありません。

 文語訳ではこの言葉は、「」に囲まれていません。つまり、文語訳ではこれは詩編118編の引用ではないと示しています。

 さらに私の持っているギリシャ語新約聖書(ネステル・アーランド)でこのマルコ伝のこの個所を見ると、この個所は引用を示す斜体のイタリックで書かれていません。この前後の文は斜体のイタリックで書かれていて引用を示しますが、この個所は普通の文と同じ字体です。

 つまり、「讃むべきかな、今し来たる我らの父ダビデの國。(我らの父ダビデの来たるべき国に、祝福があるように。)」という言葉は詩編ではなく、群衆の自身の言葉なのです。

 この言葉の意味は何でしょう?
 まずダビデという武将である王を群衆は、我らの父と呼んでいます。そして、武将の王の国とは武力で作られた国に違いありません。群衆は武将が武力で作る国を讃美して、懇願しているのです。
「早く、武力で我々の国を作ってください。武力で作った国をほめ讃えます」群衆は熱狂してイエスにそう叫んでいるのです。

 この言葉を詩編118編に入れたことは異常なこととは言えません。
 この詩には、外国からの攻撃を、武力によって滅ぼす言葉が含まれています。

 詩編118編10節には「国々はこぞってわたしを包囲するが主のみ名によって私は必ず彼らを滅ぼす」とあります。
 そして当時の群衆はこの詩をローマによって征服、支配されていた自国の姿と重ね合わせて見ていたことは間違いないでしょう。
「讃むべきかな、今し来たる我らの父ダビデの國。(我らの父ダビデの来たるべき国に、祝福があるように。)」という言葉によって、群衆が外国の征服、支配を武力で追い払う武力王を讃美していたことがわかります。そして当時の現実に即して、具体的に言えば、それは、ローマを追い払いユダヤの自立を確立する武力王です。

 この言葉から群衆は、ローマを追い払い、ユダヤの自立を確立する武力王を望んでいた。イエス様をそうした歓呼の声で歓迎したことを見ると、イエス様がローマを武力で追い払う武力王なのだと信じ、歓迎しているのでしょう。

 一方イエス様はロバに乗って入城します。

 これは旧約聖書のゼカリア書9章9.10節の預言の実現です。

 「シオンの娘よ、大いに喜べ、エルサレムの娘よ、呼ばわれ。見よ、あなたの王はあなたのところに来る。彼は義なる者であって勝利を得、柔和であって、ろばに乗る。すなわち、ろばの子である子馬にのる。
私はエフライムから戦車を絶ち、エルサレムから軍馬を断つ。またいくさ弓も断たれる。彼は国々の民に平和を告げ、その政治は海から海に及び、大川から地の果てに及ぶ。」(口語訳)

「シオンの女よ、大いに喜べ、エルサレムの女よ、呼ばわれ。視よ汝の王汝に来たる。彼は正義して、拯救いを賜り、柔和にして、驢馬に乗る。即ち牝驢馬の子なる駒に乗るなり。我エフライムより車を絶ち、エルサレムより馬を絶たん。戦争弓も絶たるべし。彼國々の民に平和を諭さん。其政治海より海に及び。河より地の果てに及ぶべし。」(文語訳)(句読点は大森による挿入)

 ここで示されているのは武力王とは正反対の姿の王です。戦車や軍馬や弓を断ち平和を告げる平和王とでもいえる姿です。
 イエス様はろばに乗って入城しますが、ろばに乗って戦争をするという話は聞いたことがありません。
 子ロバは戦争向きな生き物ではありません。イエス様は柔和で平和のために来たのです。戦争のために来たのではありませんでした。

 イエス様は武力でローマと戦い、ローマを追い出すつもりもなかったし、実際、戦いませんでした。

(しかし、実は、その後、イエス様はローマを征服しました。イエス様は、一本の刀も使わず、平和的にローマを征服しました。
 その後、使徒たちの働きにより、イエス様はローマ人の魂に入りました。そしてローマ人の魂に平和をもたらし、ローマを征服しました。ローマカトリックがその証拠です。イタリアやローマの市民はみなローマカトリック信徒であり、イエス様に征服されたのです。)

 イエス様は、救世主でしたが、武力によって他国を追い出しイスラエルの自立をもたらす救世主ではありませんでした。人々の魂を変えて、神様の愛を受け入れさせ、魂の救いをもたらす救世主だったのです。人々の魂に平和をもたらすことで、世界に平和をもらたす王だったのです。

 エルサレム入城の場面では、群衆とイエス様が一体になって熱狂的な場面があったように見えます。
 しかし真実は正反対でした。イエス様の真の姿を群衆は誤解して、自分に都合のいい姿をイエス様に見て熱狂していたのです。
 イエス様の実態と群衆の認識の間には隔絶がありました。
 イエス様と群衆の間には、深い断絶と無理解があります。群衆の心とイエス様の心は、全く切り離されています。イエス様はこの場面で、群衆に熱狂的に支持されながら、深い孤独を感じていたことでしょう。
 そしてこの群衆の無理解が理解に変わったとき、群衆が期待はずれの救世主の十字架を熱狂的に支持したのです。この場面からイエス様の十字架への道は始まっています。群衆がイエス様の十字架上の死を支持することが始まっていたのです。

 私は、この場面を現代の観点から考えます。

 私は群衆がイエス様の真意を理解できませんでした。真の救い、神の愛、魂の大切さがわかりませんでした。
 しかしイスラエルの自立を求めたこと自体が愚かだったと私は簡単に決めつけられません。
 なぜなら、私がこの掲示板でしばしば取り上げてきたTPPや主要農産物種子法などの話は、まさしく国の自立の話だったからです。日本の国が外国勢力に征服され支配されるのをくい止めたいという気持ちだったからです。国家主権を守る話だったからです。
群衆が国と民族の自立を求めた気持ちは私には理解できます。
私自身が現代において切実に求めているのは日本国の自立です。

 しかし、私はイエス様の信者です。国の自立を求める私と信者としての私をどう考えたらいいでしょう?

 まずイエス様のことを考えるとイエス様のこの地上に来られた一番の目的は、魂の救い、魂の平和、神と人間の調和のためで、国の自立のために来たのではないと言えます。

 しかしながら、イエス様は、人間が国の自立を求めてはいけないとは言ってはいません。

 現にイエス様は、エルサレムの滅亡に言及し、それを避けたい、避けさせたいと切に願っておられました。エルサレムが滅び、国が自立を失い、国の存在自体がなくなることをイエス様は憂い、それを避けることを切に願っておられました。それがイエス様の地上に来られた一番の目的でなくても、重要な問題と考えられていました。

 またイエス様は人々の魂の救いのためだけに働かれたのではありません。
 餓えた人々に食事を与え、病気を治し病者の体の回復を行い、目が不自由な人の目を見えるようにし、歩けない人を歩けるようにしました。魂の救いと直接関係なくても、人々の苦しみを取り除き、人々を不自由から解放し、人々の望む自由と救いを与えました。

 私はTPPなどグローバリズムと規制緩和で医療が悪化し、食料が高騰し、遺伝子組換え食品など体に悪い食品がますますはびこることを憂いていますし、防ぎたいと願っています。病気を治し、食事を与えたイエス様がそのことをしてはいけない悪いことだと言うはずはありません。

 しかしそれは魂の救いではありません。安全な食料が充足し、医療が充実し、日本が海外の悪しき勢力からの搾取が無くなったとしても、それが魂の救いでないのは言うまでもありません。そうした安心、安全な世界で人々が堕落し悪に染まることは往々にしてありうることです。安心、安全な世界でも人間が憎しみ合ったり、孤独に苦しめられたり、隣人を無視して愛を捨て去ることはあるでしょう。安心、安全な世界でも、憎悪、不安、いがみ合い、孤独、恨みなどの負の感情が人の魂の中にあることはあり得るでしょう。人間の心から罪の感情はなくならないでしょう。それらが離婚、児童虐待、盗み、殺人、虚偽などの悪を引き起こすでしょう。
 そうした魂の罪から人々を救い出すのが救世主としてのイエス様の目的です。人々の魂に神様の愛があることであり、イエス様が一番したいことです。しかし、だからといって、医療の充実、安全食品の提供の充実、搾取の防止が無駄なことだったり、してはいけないことなのではありません。医療の充実、安全食品を充実、搾取を防止のためには外国からの経済侵略を防止し、国の自立が必要なのですから、国の自立は無駄なことではありません。

 また私は現在の種々の悪、搾取、格差、奴隷化の背後に悪魔的なものを見ます。
 悪魔の存在を感じます。
 悪魔は、現代に種々の搾取、格差、奴隷化などの悲惨を持ち込み、それを通じて、人々の魂を絶望させ、神はない、愛はない、希望はないと思わせたいのです。その代わりあるのは、貪欲、傲慢、残酷です。悪魔は、貪欲、傲慢、残酷な人々を応援し、それらの人々の願いをかなえ、勝つ者は悪にしたがう人間だと思わせたいのです。そして、人々の神様との関係を弱め、切り、信仰、希望、愛を弱め、絶望に導き、悪魔を崇拝させたがっています。
 それはアダムとエバの時と同じです。最高の被造物である人間の魂を、神のものから悪魔のものにすること、それが悪魔のしたいことです。それと戦うにはしっかりした信仰、そして、希望、愛が必要です。
 私は国の自立を思いながら、それがキリスト教的な戦いだと感じています。
 もし国家神道が本当に強い宗教なら、悪魔に勝てるでしょう。しかし、今の国家神道を信じる国の指導者たちは悪魔的なグローバリズムの手先になり、国民に隠れて、搾取と格差に協力しています。私は、国家神道は大した宗教ではない、国家神道は、明治以来日本の自立を守るためにその支えになってきたが、結局、悪魔的なものに屈する宗教なのだと感じざるを得ません。
 2017年4月に主要農産物種子法を廃止し、で米の種を長年公営で守ってきた努力を破棄しました。
 2017年8月から施行された農業競争力強化支援法でその努力の結晶である種の知見を多国籍企業にタダで与えると決めました。その他、政府金融機関が多国籍農業企業を支援することが決まっています。
 農業多国籍農業企業は、種に特許権をかけて毎年特許種を買わせて農家を搾取、支配することで有名です。
 国家神道信者の首相はじめ国の中枢部は、日本の農を多国籍企業に支配させる道を積極的に選び、日本の農と食を多国籍企業に渡そうとしています。
 何が愛国なのか?
 国家神道の人々など世界的権力に屈する人間なのだと思います。そうでなければ、現政権のこうした政策に積極的に反対してほしいです。
 また日欧EPAにも大枠合意しました。
 TPP並みの影響力を持つ規制緩和に大した議論も国民への情報提供もなく、大枠合意したのです。

 今回は、群衆とイエス様の関係について書いてみました。
 マルコ伝によれば、群衆とイエス様の間には救世主についての考えが正反対と言っていいほど違っており、群衆が誤解していました。その誤解が正解に至ったとき、群衆はイエス様を見放して、裏切られた思いで、十字架刑を熱狂的に肯定したのだと思いました。
 
 

イエス様の磔刑への道~神殿での商人排除と祭司たち

 投稿者:大森  投稿日:2017年 7月 3日(月)07時02分58秒
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  ペテロの殉教について考えようとしましたが、よく考えるとイエス様の十字架をまず考えなければならないと思いました。
イエス様の十字架なくして、ペテロの殉教もないし、イエス様の十字架についての考察は非常に大切だと思いました。
現代社会や1984年の観点からも考察する必要があります。
ただイエス様の十字架はあまりに大きな重大な問題なので、それを丸ごと考察はできません。
十字架という巨大な事実から来る光を通して、私の関心事が影のように浮かび上がることになるでしょう。

一般的にプロテスタント教会では、イエス様の十字と言えば、人類の罪の贖い、身代わりの死、それを信じれば救われるという解釈で語られます。
それについてはプロテスタント教会の牧師にお任せするとして、私は、イエス様の十字架というものを人類の罪と悪を明らかにしたものとしてまず考えたいです。
つまり、当時の人々は、イエス様という慈愛に満ちた存在を、ほとんど満場一致に近い状況で残虐な死刑に処したのです。何という残虐さでしょうか?慈愛に満ちた人物を残虐に殺すとは?
またイエス様は、餓えた民に食物を与え、病をいやしました。そうした人間を殺すとはどういうことでしょうか?飢餓からの救い、病からの救いがいらないというのでしょうか。

イエス様は、自分は天の軍勢を呼べると言っています。
もし、天の軍勢が、ユダヤ教の指導者、ローマ軍を超自然的な方法で制覇し、屈服させたら、多くの人々が、イエス様に平伏し、従ったでしょう。イエス様は、そうされませんでした。もし、そうしたら、人々はローマ軍をも制覇した暴力に平伏したのであって、純粋な慈愛に屈したのではなくなるからです。ドストエフスキーのいう自由な愛を純粋に求めたのではなく、暴力への奴隷的隷属に屈したことになるからです。

が、人々が純粋な慈愛に対しては、自由な愛ではなく、憎悪、侮辱、暴力で応じました。まるで人間の中に潜む最悪の罪が吐き出されたようです。人々はイエス様にこれでもかと思うほど、憎悪し、侮辱と暴力を加えました。

ここでイエス様の十字架刑の場面で、どんな種類の人間がいたのかを、書いてみます。
ユダヤ教の祭司たち、ローマ兵、ポンテオピラト、群衆、弟子たち。そして、悪魔。

今回は祭司たちとイエス様の十字架について考察してみます。

ユダヤ教のパリサイ人、祭司たちとイエス様は完全に対立しています。
祭司長たちがイエス様を殺そうとして画策し、死に至らしめたことは、福音書から明らかです。
「祭司長たちや民の長老たちが、カヤパという大祭司の中庭に集まり、策略をもってイエスを捉えて殺そうとした。」マタイ26.4、他マルコ14.1.ルカ22,2。ヨハネ11.53、福音書のすべてが祭司長たちがイエス様を殺そうと画策したことを明言しています。
現世的にみれば、イエス様の磔刑の原因は、祭司長たちにあります。

ではなぜイエス様と祭司長たちは対立したのでしょう?

イエス様が祭司長たちを批判したからです。イエス様と祭司長の対立について、今回はマルコ伝従って考察します。
マルコ伝福音書によれば、イエス様がエルサレム入城を果たしました。そしてその後、神殿の庭で売り買いしていた人を暴力的に追い出します。その直後、祭司長たちと律法学者は、「どうかしてイエスを殺そうと計った」とあります。マルコ伝に従えば、イエス様の磔刑への道は現世的にはこの時始まったのです。しかし祭司長はイエス様を支持する群衆を恐れてそれができませんでした。

この場面をもう少し分析してみます。
まず、目立つのはイエス様の暴力です。
「汝の隣人を愛せよ」「敵を愛せよ」「裁くな」という教えをしたイエス様が何をしているんだ?と不思議に思います。正直、私には、この暴力を肯定していいのかどうか、戸惑います。

戸惑いはあるのを前提として考えますと、ここでは神殿において商人たちが重要な罪を犯していたことを感じます。
それは、祭司長も律法学者もイエス様の行為の意味を責めないことでもわかります。祭司長たちはイエス様を殺したいのですから、イエスさまがしたことが間違っていれば、それは絶好の機会です。それを追求してイエス様を逮捕すればいいのですから。
祭司長たちは、イエス様の行為の目的も暴力という手段も批判しません。それを原因に逮捕もしません。
それは祭司長たちもイエス様も行為を「正当だ。間違っていない。間違っていると非難できない」と思っていることを示しています。

私は現代にそれを比べてみました。
もし公共の場である公園で、勝手に店を開いて商売したらどうでしょう?はじめは警官が来て撤去するように説得するでしょう。もしそれに応じなければ、最終的には強制撤去という暴力的手段で店を移動するでしょう。我々はそれについて不当だとは思いません。「そんなところで商売する人間が悪いからしょうがないだろう」と思います。
イエス様の行為はそうした行為です。ユダヤ人にとって神の律法が法律でしたから、神の律法違反は、現代の法律違反と同じような感覚でしょう。最悪、暴力による撤去もありえるでしょう。イエス様は、神から使わされた警察官として、不当占拠した商人を強制撤去したのです。

ここで問題になるのは、イエス様が神の警察官であるかどうか、です。もし私人が勝手に強制撤去すれば、そこには権威がないので、それを実行する立場にありませんし、別の犯罪になるでしょう。

イエス様が神の警察官であるのかどうか?
祭司長たちは撤去事件の次の日にはイエス様に聞きます。「なんの権威でこうしたことをするのか?」と。
これは、私の言い方に変えれば「お前は神の警察官なのか?」ということです。
これには罠が仕掛けられています。
もし「私は神に使わされた者だ」と言えば、勝手に自分を高め、神を冒瀆したとして訴える口実になります。
「そうでない」と言えば、「私人が勝手に暴力を振るった」ということで訴えられます。

イエス様はバプテスマのヨハネを持ち出して、祭司長たちの曖昧さを突きます。
「本当に神の権威だったバプテスマのヨハネに対して、あなたたちは、曖昧な態度しかとらなかったではないか?あなたたちは、本当に神の権威について真剣に考えているのか?自分たちがまず神の権威について、自分たちが神の警察官にようにふるまっているのか?神を求めて、従っているのか?」そうした祭司長たちの曖昧さ、真剣に神に従うことを考えない態度について追及することで確答を避けます。
イエス様が逃げているのではないと思います。イエス様には十字架につく覚悟がありますが、まだやるべきことが残っている、言うべきことが残っている、その使命を果たすためにまだ時間が必要だということなのだろうと思います。
また祭司長たちの曖昧さや偽善性を示すことが神様の御旨でもあったのだと思います。

私は、ここまで書いてきて、「(そして彼らに言われた)、『それなのにあなたがたはそれ(神殿)を強盗の巣にしてしまった』」という言葉の重要性に気が付きました。この言葉について考えてみます。

神殿では強盗のような行為が行われていました。つまり、神の権威を悪用して、不当で重大な搾取を一般民衆からしていたということです。

きっとこんなことが行われていたのでしょう。

神殿ではいけにえの動物を手に入れ神に生贄を捧げなければなりません。しかし、その生贄の動物を購入する際には神殿で、不当なほど多額のお金をを出さなければ生贄を買えず、神への捧げものができないシステムだったのでしょう。
鳩を売るものという記述が生贄を売る商人を示しています。レビ記5章7節に生贄についての以下の記述があります。
「もし小羊の手が届かないときは、山鳩二羽か家鳩のひな二羽かを、彼の犯した罪のための償いとして主に携えてきて、一羽を罪祭に一羽を燔祭にしなければならない」

また、神殿で物を買うためには両替をしなければ神殿で物が買えない状態になっていたのでしょう。しかし、両替手数料として不当で多大な額が請求されたのに違いありません。
神への信仰のため来た人々は、強盗に2重に3重に搾取されて金を支払わなければ、信仰の行為ができなくなっていたのでしょう。
イエス様は商人たちの追い出し、両替人の台や鳩売りの椅子をくつがえして、上記の「(神殿は祈りの家と唱えられるべきなのに)、それなのにあなたがたはそれ(神殿)を強盗の巣にしてしまった」というのです。

イエスは、その言葉を「彼ら」に言います。つまり商人たちや両替人たちに言うのです。(彼らの原文ではautoisが使われ、「彼ら」と訳すのが正しいはずです。新共同訳では「人々に」と訳されていますが、間違いと思います。口語訳でも「彼ら」、KingJamesBibleでも、ギデオン英文でも「them」と訳されています。イエス様の話の相手は商人や両替人です。)

私は、「神殿を強盗の巣にしてしまった」という言い方に注目します。彼ら(商人、両替人)は、神殿を強盗の巣にしてしまったのです。これを読むと、彼ら(商人、両替人)が強盗ではなく、彼らが、強盗の道を開き、強盗の協力をして、強盗を神殿に招き入れたように読めます。もし、イエス様が、商人が強盗だと思ったら、「お前たちは強盗だ」というのではないでしょうか?
私は、商人や両替人は、神様への信仰心で神殿にやってくる庶民から高い生贄や手数料を取って搾取していたと推測します。しかし、そうした搾取による利益を最終的に手にしていたのは、商人たちではなく、祭司たちだったのではないでしょうか?商人、両替商は祭司たちの命令で、神殿で暴利を搾取する商売をしていたと思います。強盗行為がここで平然と行われる手助けを商人たちはしていた、しかし、それを計画し暴利を最終的に手にしていたのは、祭司たちだったのでしょう。
大体、神殿で祭司たちの命令もなく商人が勝手に商売をして暴利をむさぼることができるはずはないでしょう。神殿を支配していたのは祭司たちだったに違いありません。商人たちは祭司たちの支配下にあるはずです。

だから、イエス様は、それに手を貸した商人たちに、「神殿を強盗の巣にしてしまった。」=「お前たち自身が強盗ではないが、強盗の手助けをして神殿に強盗をのさばらせる状況に協力した」言ったのではないでしょうか?

だから、次の瞬間に、祭司たちは、「これを聞いてイエスを殺そうとした」のでしょう。
自分たちの悪が暴かれ、彼らの隠していた強欲な罪の姿を「強盗」という言葉であからさまに示したイエス様を排除しなければならないと考えたのでしょう。


「それなのにあなたがたはそれ(神殿)を強盗の巣にしてしまった」という言葉は商人や両替人に対する悔い改めの勧告です。言い換えれば、商人や両替人にはまだ悔い改めてやりなおす可能性があるとイエス様は見ていたのでしょう。それと同時に祭司たちに対する挑戦であると言えます。

イエス様が祭司たちが悔い改めるということを考えていないようです。
祭司たち、学者たちの罪は深く、心は悪に染まっており、神に立ち返ることが大変困難と思っているようです。イエス様の商人に対する暴力的対応は、商人たちそのものだけでなく、むしろ、祭司たちに対する強烈な批判であり、対立の意思表示です。イエス様は祭司たちに関して、宣戦布告をしているように見えます。
その戦線布告に対して、祭司たちは、すぐにイエス様の完全排除=殺害で応じようと決心します。

磔刑への道は現世的にはこの時、祭司たちにより開きました。祭司たちが、神の権威を盗み、強引さで庶民から搾取する強盗であることを、イエス様があからさまに示したことで、祭司たちが自分たちの権威、強盗的搾取、神さまに背く罪を隠そうとする欲求から、イエス様が磔刑につくことになったのです。

最後に私は現代を考えます。

現代では、今まで書いたように、我々庶民の生活の根幹である、米、麦、水、漁業権、医療、などを、多国籍企業とその株主という世界的権力者たちが、特許権などで私物化し、庶民を搾取しようとしている計画が進んでいることを感じています。それは表面に現れず、多くの庶民が知りません。

米、麦、水、漁業権、医療は神様が人間に生活に必要だとして、人間に平等に与えたものです。
イエス様は、餓えた人々に食物を与えました。水も神様が人間に与えたものです。イエス様はペテロにたくさんの魚を捕らせました。イエス様は病の人々を癒しました。
世界的権力者は、神様が与えた人々に必要なものを奪う強盗です。

イエス様の時代の祭司たち、権力者、権威者たちの強盗的搾取と現代の権力者の強盗的搾取を比べて、二つは、重なり合っているように私には見えます。
イエス様はそうした強盗のような搾取と断固として戦ったのです。

ペテロには触れられませんでしたが、長くなったので一度ここで投稿することにいたします。

 

参考に

 投稿者:大森  投稿日:2017年 6月22日(木)10時55分40秒
返信・引用 編集済
  清水様。
共感いただいてありがとうございました。
私がかつて聖書について書いた文章を参考にあげておきます。
見ていただければ幸いです。

モーセと神の出会いについて
http://www.geocities.jp/gentishasin2/bunretu1

律法について
http://www.geocities.jp/gentishasin2/bunretu2

マタイとパウロについて
http://www.geocities.jp/gentishasin2/bunretu3

ヘレニズムと伝道の書
http://www.geocities.jp/gentishasin2/bunretu4
 

イエスと共にいたペテロ

 投稿者:清水  投稿日:2017年 6月17日(土)08時14分40秒
返信・引用
  大森さん、取税人マタイ、パウロ、ペテロの論述、たいへん教えられます。ペテロについてでは、イエスとの直接的体験が深く濃かった点が着目されます。直接体験は自分以外の人にも大いなる力を発揮しますね。大森さんの論述では次の文章に収斂されます。
 彼の体験そのものが、キリスト教の中心であり、その後のキリスト者の人生の典型的見本になったのです。
 

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